二木謙三
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二木謙三
生誕樋口謙三
(1873-01-10)
1873年1月10日
日本 秋田県秋田市土手長町
死没 (1966-04-27) 1966年4月27日(93歳没)
日本 東京都港区白金台
肺炎
国籍 日本
研究分野細菌学
研究機関東京帝国大学
東京市立駒込病院
ドイツミュンヘン大学
日本医科大学
東京歯科医専
日本女子大学
日本伝染病学会
出身校東京帝国大学
博士課程
指導教員グルーバー教授
主な業績赤痢菌駒込A菌、駒込B菌の分離
鼠咬症スピロヘータの発見
脾脱疽菌(炭疽菌)の免疫の解明
日本脳炎の診断法の確立
主な受賞歴帝国学士院賞(1929年)
文化勲章(1955年)
補足
二木謙一(孫、歴史学者)
プロジェクト:人物伝
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二木 謙三(ふたき けんぞう、1873年明治6年1月10日 - 1966年昭和41年4月27日)は、秋田県秋田市生まれの医学博士文化勲章受章者。北里柴三郎に比肩する世界的な細菌学者で、鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータの発見、天然免疫学理の証明などの実績を遺した。また、玄米食の提唱、実践運動や教育者としても多くの功績がある。日本の医学界の重鎮であったと同時に、民間療法一般に理解があった。ノーベル生理学・医学賞の候補になったとも言われる[1]歴史学者國學院大學名誉教授、日本中世史(戦国史)が専門で有職故実研究の第一人者として知られる二木謙一の祖父。
生涯

1873年明治6年)1月、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町、秋田警察署の辺り、旧小野岡邸隣)で生れた。父樋口順泰、母ヱイの子供、男4人、女3人の二男であった。父は「倹蔵」と命名したが、いつのことか戸籍係が「謙三」と誤記、それがそのままになったーと、後年、本人が語っている。

1901年明治34年)、東京帝国大学医学部卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力した。その間ドイツに留学し、3年間ミュンヘン大学にて自然免疫性に関する研究を遂げた。尚、駒込ピペットの考案者でもある。

1915年大正4年)、赤痢菌の新種二種(駒込A菌、駒込B菌)を発見して赤痢病原多元説を確立。

1914年?1920年(大正3年?大正9年)、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)、第4代病院長。

1919年?1931年(大正8年?昭和6年)、駒込病院、第5代院長。

1921年(大正10年)、東京帝国大学教授を兼任。

1926年(大正15年)、日本伝染病学会を創立。(1974年(昭和49年)に日本感染症学会に改称)

1955年昭和30年)、「鼠こう症の研究」にて文化勲章受章。

1966年(昭和41年)、老衰にて死去。94歳

友人の岡田道一らと日本心霊医学会を主宰したり、日本催眠学会 (田宮馨会長) の顧問、豊島岡女子学園中学校・高等学校第4代校長・理事長、勇退後は初代学園長、蓮沼門三によって結成された修養団の第3代団長を務めるなど多くの要職を兼ねた。
健康法

二木は秋田佐竹藩の藩医、樋口家の出身で、元の姓は樋口であった。8人兄弟の3番目に生まれた。3歳の頃、同じ秋田藩の藩医、二木家に養子縁組して、二木姓を名乗る。生まれた時には1年ももたないと言われる程の虚弱であった。20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされたが、徴兵検査のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、軍隊の黒い麦飯を食えと一喝され、その翌日から麦飯食を始めた。これにより、虚弱な病身から開放された。このように二木は、藩医の家の生まれであること、そして、また、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという原体験により西洋医学の道に進路をとり、そして、それと矛盾することなく東洋的な健康法の普及活動に志向した。

食事法としては玄米菜食による完全食は用いず、動物は少なくし、二分間煮で食べることを提唱していた。二木自身は48歳より、1日1食、玄米、塩なし、油なし、火食なし、動物不要の食事となった[2]

正心調息法の創始者である塩谷信男は二木の健康法を実践して病弱体質を克服した。二木は晩年も元気に活動し、亡くなる前には全国の弟子たちを電報で呼び集め、全員が揃ったところで「それじゃあ、君たち、最後の息をするから、さようなら」と言って世を去ったという[1]


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