二曲輪 猪助(にぐるわ いすけ)は、享保11年(1726年)に成立した駒谷散人
『関八州古戦録』に登場する、忍びの骨張(こっちょう)。天文14年(1545年)から翌年にかけての河越合戦のとき、扇谷上杉軍の陣中に潜入して敵情を報告していたとされる。風間小太郎の指南を受けて後北条氏に仕えた、『北条五代記』の風魔の師匠筋にあたる伝説の忍者である。『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責之事」によると、天文14年(1545)の河越の陣中、北条氏康の命を受けて、小田原から、風間小太郎の指南を得た二曲輪猪助という「忍びの骨張(こっちょう[1])」が柏原(埼玉県狭山市)の扇谷上杉の陣中に潜入し、敵軍の配置の詳細を報告していた。しばらく経ってから露見し、扇谷の追手の太田犬之助という「歩行立の達者」に追いかけられたが、小田原まで逃げ帰ることができた。この日、誰かが扇谷の陣の前に駆出され 逃ぐるは(二曲輪)猪助 卑怯もの よくも太田(逢うた)が 犬(去ぬ)之助かな
という落首を書いた[2]。 『川越市史』[3]は、河越夜戦については、後世の人に疑問を抱かせるような物語的逸話が多すぎる、とし、例として河越城の城将・北条綱成の弟・福島弁千代[4]が籠城中の城内に決戦の予定を伝えて鼓舞した、という逸話と、上記の『関八州古戦録』の二曲輪猪助の逸話を挙げている。 とはいえ、『関八州古戦録』は、『関侍伝記』(七巻本『北条記
評価
原話
また『鎌倉管領九代記
』の「風間小太郎」の名前を挙げて後北条氏と結び付け、『北条五代記』の風魔の存在を仄めかしていることから、『鎌倉管領九代記』と『北条五代記』も参照していることがわかる。