二所ノ関一門
[Wikipedia|▼Menu]

二所ノ関一門(にしょのせきいちもん)は、大相撲一門のひとつ。
歴史

長い大相撲の歴史の中でも新興勢力で、1960年代から勢力が急激に拡大していった一門である[1]。1907年(明治40年)1月に二枚鑑札で5代二所ノ関を襲名した友綱部屋の元関脇海山は、1909年(明治42年)1月場所限りで現役を引退して以降は年寄専任となり、同時に友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した[2]

5代は玉錦大関にまで育て上げたものの、玉錦が1932年(昭和7年)10月に第32代横綱に昇進する直前となる1931年6月に胃癌で死去し、弟子は友綱部屋の元幕内鬼竜山雷八 (2代)が率いる粂川部屋預かりとなった[3]。1935年(昭和10年)1月、二枚鑑札で6代二所ノ関を襲名した32代横綱・玉錦二所ノ関部屋を再興し、二所ノ関一門を旗揚げしたが、玉錦は35歳の若さで現役中に死去する。

玉錦死後、26歳の関脇・玉ノ海が二枚鑑札で7代二所ノ関を継承する。7代は先代の弟子から大関・佐賀ノ花、関脇・神風玉乃海、小結・琴錦、、幕内・大ノ海、幕内・十勝岩、、直弟子から関脇・力道山などといった関取を育て上げた。

二所ノ関部屋が、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で両国の建物が消失して、1950年(昭和25年)まで杉並区真盛寺に間借りしていた時期に[4]7代二所ノ関が、「幕内まで昇進した者には内弟子を採用して分家独立することを奨励する」方針を打ち出したことから、大ノ海(後に花籠部屋を創設)、琴錦(後に佐渡ヶ嶽部屋を創設)、玉乃海(後に片男波部屋を創設)らが分家独立を目指して自分たちの内弟子を抱えて育成した。そのため、1951年(昭和26年)9月に8代二所ノ関を継承した大関・佐賀ノ花の時代も分家独立が相次いだ。

8代は、1952年(昭和27年)1月に引退して以降は年寄専任となり、第48代横綱・大鵬、大関・大麒麟などといった数多くの関取を育て上げた。部屋の数は各一門の中で一番多く、ほぼすべての世代において横綱・大関を輩出している。

一門は大別すると二系統に分かれ、部屋の立地から東京東部の両国系と西部の阿佐ヶ谷系と呼び区別されている。実際に1974年(昭和49年)4月24日の一門協議によって、阿佐ヶ谷系の花籠部屋・二子山部屋と、本家と険悪だった片男波部屋は花籠一門として一時期分離独立していた[5]。2018年に出羽海一門から貴乃花一門を経て参加した千賀ノ浦部屋(2020年11月に常盤山部屋に改称)時津風一門を離脱した後、無所属を経て参加した錣山部屋湊部屋に関しては、この両系統に属さない。
両国系

両国系は本家の二所ノ関部屋の流れであるが、佐渡ヶ嶽部屋(元小結・琴錦)分家独立時の内弟子・琴ヶM移籍、片男波部屋(元関脇・玉乃海)の分家独立、押尾川部屋(元大関大麒麟)の分家独立(押尾川の乱)、阿武松部屋(元関脇益荒雄)の分家独立、二所ノ関本家の後継などを巡って対立が相次いだ。

二所ノ関本家は10代二所ノ関(元関脇・金剛)の病気療養を理由に2013年に閉鎖、二所ノ関の名跡は阿佐ヶ谷系に移った。

両国系からは、「昭和の大横綱」48代・大鵬(二所ノ関部屋)、51代・玉の海(片男波部屋)、53代・琴櫻佐渡ヶ嶽部屋)が横綱に昇っている。
阿佐ヶ谷系1956年夏場所、若乃花初優勝時の優勝パレード

阿佐ヶ谷系は、1952年(昭和27年)に二所ノ関部屋から最初に独立した8代芝田山(元幕内・大ノ海)を源流とする。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で両国の建物が消失した二所ノ関部屋は、1950年(昭和25年)まで杉並区真盛寺に間借りしていた[4]玉ノ海が、「幕内まで昇進した者には内弟子を採用して分家独立することを奨励する」方針を打ち出したことから、大ノ海も弟子育成を志し、若ノ花(のち第45代横綱)をスカウトして真盛寺へ連れてくる。若ノ花は内弟子第一号として二所ノ関部屋に入門し、1946年(昭和21年)初土俵を踏んだ[6]。大ノ海はアマチュア相撲の名門である日本大学相撲部員に稽古を付けたことがあり、その縁で現役中の1948年(昭和23年)杉並区阿佐ヶ谷日本大学相撲部合宿所に「大ノ海道場」を設立、隣接地に部屋の建設を始めて内弟子を育成しはじめ事実上の独立をする[7][8][9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef