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二岡 智宏読売ジャイアンツ ヘッド兼打撃チーフコーチ #76
読売ジャイアンツ二軍監督時代
(2023年5月2日)
基本情報
国籍 日本
出身地広島県三次市
生年月日 (1976-04-29) 1976年4月29日(47歳)
身長
体重180 cm
81 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手、三塁手、一塁手
プロ入り1998年 ドラフト2位(逆指名)
初出場1999年4月2日
最終出場2013年9月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
広陵高等学校
近畿大学
読売ジャイアンツ (1999 - 2008)
北海道日本ハムファイターズ (2009 - 2013)
監督・コーチ歴
読売ジャイアンツ (2016 - 2018)
富山GRNサンダーバーズ (2019)
読売ジャイアンツ (2020 - )
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二岡 智宏(におか ともひろ、1976年4月29日 - )は、広島県三次市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。
2024年シーズンからヘッド兼打撃チーフコーチに就任することが決まった。 広島県三次市出身。同じプロ野球選手の福原忍と小学校から高校(広陵高等学校)まで同窓であり、中学校までは二岡がエースだった。 1993年(広陵高校2年生時)の秋、翌1994年春の選抜高校野球大会の実質的な予選となる広島県秋季大会に選手として出場。10月2日に行われた同大会の準決勝を応援に向かった両親が交通事故に遭う。二岡は準決勝終了後に、母親は無事だったが父親が意識不明であることを知らされる。当日夜は病院で父に付き添い、10月3日の決勝へ臨むこととなった(この頃「自分の責任ではないか」とも思えていたという。)。決勝は広島商業と対戦し、9回裏二死まで8-0とリード、福原が完封目前だったが中井哲之監督の配慮で二岡が登板、3球三振で試合を決めた。父親は10月7日に他界。この経験からプロ入り後、親が交通事故に遭った小・中学生を試合に招待する活動を行うことになる(後述)。 1994年(同高校3年生時)には福原との二枚エース兼三塁手のレギュラーとなる。この年の広陵高校は全国高等学校野球選手権広島大会の優勝候補筆頭であったが、3回戦で新井貴浩のいた広島工業高校に敗れた。高校卒業時にプロからの誘いもあったが、元々進学希望であったのでこれを断り、近畿大学に進学。なお、実兄も広陵高校野球部に所属し、1991年の第63回選抜高等学校野球大会の優勝メンバーだった。 進学した近畿大学では1年生時からレギュラーとなる。7季連続ベストナイン、関西学生リーグ通算91試合に出場し、打率.324、13本塁打、70打点、114安打を記録し、宇高伸次や1年上の清水章夫両投手、藤井彰人捕手らと共に大学日本一など多くのタイトルを獲得。1997年には春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮野球大会、社会人野球日本選手権優勝チームとのアマ王座決定戦の全てで優勝し、史上初のアマチュア5冠達成の原動力となった。同年8月にはIBAFインターコンチネンタルカップに日本代表として出場、優勝メンバーの一員となる。 1998年のドラフトでは、二岡の獲得を巡って地元球団の広島東洋カープのほか、阪神タイガース、読売ジャイアンツ(巨人)が争うこととなった。広島は地元出身の二岡を高校時代から評価しており、同年春の段階で希望入団枠制度枠(希望枠)による獲得を目指すことを早々に公表、また希望枠による選手獲得は二岡以外には行わない姿勢を見せた。阪神も二岡が地元関西の近畿大学在学とあって同年春に1位指名を表明したものの、一時は全国高等学校野球選手権大会で大活躍した松坂大輔指名に傾くなど迷いを見せ、秋になって再度、二岡指名を表明した。 広島スカウトの宮本洋二郎は、近畿大学在学中の4年間常に二岡をマークし、全日本代表に選ばれた際にはオランダ・イタリアまで遠征し、1998年秋の時点で広島に来てくれるという確かな感触を掴んでいたという。球団も野村謙二郎の後継者として期待していたが、最終的に二岡はドラフト直前になって一気に交渉を進め巻き返した巨人(上原浩治の1位指名を予定していたため、2位指名が確実だった)を逆指名。入団断りの連絡が大学関係者から広島球団に入った際、諦めきれなかった宮本は「僕は二岡君本人から入団断りの言葉を聞いていない、それを聞くまでは下がれません」と食い下がったが、宮本が二岡本人の言葉を聞くことは最後までなかった[1]。 ドラフトから3年後の2001年9月に出版された『青い空を見上げて-読売ジャイアンツ二岡智宏』において、二岡の母は、二岡本人が当時「自分では決められない、くじで決めたいぐらいだ」と言うほど悩んでいたこと、『広島を拒否』などと身に覚えのない発言や契約金を巡った憶測を記事にする報道に対し、本人がそれまでに見たことないほど怒っていたこと、広島をひっそりと出発せざるを得なくなったことに対し、「何も悪いことをしていないのに」と複雑な気持ちだったことを明かした。 だが2012年3月15日、朝日新聞朝刊にて1998年のドラフト指名に際し、最終的に巨人から二岡側に5億円+退団時の功労金7000万円+出来高3000万円が支払われていた疑惑が報じられる。契約では、球界で定められた最高標準額1億5千万円を超過する金額については複数年の分割払いとし、各年の出来高条件の一部をクリアした場合に支払われるとされていた。巨人にとって出来高払いは税務上、契約金の分割払いとみなされ、通常の出来高払いとは違う会計処理をしていた。二岡も税務申告する際、契約金の一部であることを明らかにしていた[2]。 1999年、長期にわたり巨人の遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。その川相は「ショートを二岡がやるんだったら、私はサードでもセカンドでもどこでもできますよ。…ということをアピールしてやろう」という自身の心境を自著で書いている[3]。
経歴
プロ入り前
巨人逆指名までの経緯
巨人時代巨人選手時代