二宮神社_(あきる野市)
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二宮神社

拝殿
所在地東京都あきる野市二宮2252[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分36.79秒 東経139度18分48.86秒 / 北緯35.7268861度 東経139.3135722度 / 35.7268861; 139.3135722 (二宮神社)座標: 北緯35度43分36.79秒 東経139度18分48.86秒 / 北緯35.7268861度 東経139.3135722度 / 35.7268861; 139.3135722 (二宮神社)
主祭神国常立尊 [1]
社格武蔵国二宮
郷社
創建不詳
本殿の様式三間社流造
別名小河大明神・小河神社
例祭9月9日(しょうが祭り)
地図
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鳥居

二宮神社(にのみやじんじゃ)は、東京都あきる野市にある神社武蔵国二宮で、旧社格は郷社。別称は「小河神社(おがわじんじゃ)」。古くは「小河大明神」[注 1]または「二宮大明神」とも称された。
祭神

国常立尊 (くにとこたちのみこと)[1]

歴史

創立年代は不詳。『和名抄』に記されている武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり[2]、「小河大明神」とも称された。

当社は武蔵国二宮であったとされ、『神道集』『私案抄』にみられる「武州六大明神」[注 2]の一角に数えられている。この六社のうち唯一、式内社ではない。現在も武蔵国総社・六所宮(現・大國魂神社)の一座に祀られているほか、周辺の地名は「二宮」と称されている。

古記録によると、藤原秀郷が生国の山王二十一社中の二宮を崇敬する縁故をもって特に当社を崇敬し、天慶の乱に際し戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営した。

源頼朝北条氏政も崇敬篤く、ことに北条氏照滝山城主となって、同氏の祈願所とした。のち、神殿神宮宅は罹災し、記録の大半が焼失した。

一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録がある。この「二宮城」の所在を探るため、昭和47年(1972年)に二宮神社境内の一角が発掘調査されたが、関係する資料を得ることはできず否定された[2]。しかし、この発掘調査では、寺院に関係する小型の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいる。特に、薬師如来像は小河大明神の御正体と推測されている[2]

天正19年(1591年)、徳川家康より朱印15を受け、以後、代々継承されてきた。現在の本殿は、江戸時代に建立されたといわれる。

明治3年(1870年-1871年)、現社名に改称した。
本殿本殿

三間社流造で、江戸時代の造営。内部には室町時代造営の宮殿(市指定文化財)が納められている。
二宮神社お池お池

参道の石段を降りて道路を渡った反対側には、当社の「お池」があり[注 3]、豊富な湧出量を誇る清らかな湧き水が満々とたたえられ、「千人清水」と名付けられた小が勢いよく流れ出している。この湧水は同市の八雲神社の湧水とともに、東京都選定「東京の名湧水57選」[4]のひとつに数えられている。

お池の中には1990年平成2年)菅野遊邦作の「雨乞いの男」という、座って横笛を吹いている男の像がある。これは昔、ここで雨乞いをしていたという言い伝えに基づいて制作されたものである。
摂末社

いずれも境内末社。

伊勢神社

八幡神社

八雲神社

天神社

稲荷神社(同名2社)

荒波々伎神社


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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