凡例二宮就辰
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文15年(1546年)?
死没慶長12年5月3日(1607年6月26日)
改名二宮虎法丸(幼名)→二宮就辰
別名通称:与次(余次)→太郎右衛門尉
法名:入道瑞友
墓所伊佐江開作地内 門田の森(山口県防府市)
官位従五位下、信濃守
主君毛利輝元
藩長州藩
氏族清和源氏頼信流逸見氏庶流二宮氏
二宮 就辰(にのみや なりとき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣で、毛利輝元の側近を務めた。二宮春久の子とされるが、毛利元就の落胤説もある。
生涯
出生の娘(矢田氏)。生年については『閥閲録』に収められている二宮家の家譜の記述に異同があるため天文15年(1546年)と天文18年(1549年)の2説があるが、『閥閲録』内の別の記述では元就の正室である妙玖の死去数ヶ月後に誕生したとも伝えられているため、天文15年(1546年)の生まれと推定される。しかし、元就としては正室が病床にある手前、側室が出産することは体面が悪く、妊娠7ヶ月の矢田氏を家臣である二宮春久に払い下げた後に誕生したといわれている。誕生後は二宮春久の子として養育されることとなるが、就辰が誕生した時、元就は自分の子であることを伝えるため、具足や産着等を与え、虎法丸と命名した。
なお、就辰は毛利家の家中においてはあくまで二宮春久の子と認知されており、元就の落胤であるということは知られていなかった。元就の死後、元就の側室の一人であった中の丸が就辰の出自の件を毛利輝元に伝えたことにより発覚、以後毛利輝元の側近として仕えるようになったという。 永禄5年(1562年)2月22日、元就の加冠によって元服し、「就」の偏諱を与えられて「就辰」と名乗る。永禄6年(1563年)9月13日、出雲国白鹿城の小高丸における合戦で功を挙げ、同年10月18日に元就から書状にて賞賛を受けた。 天正17年(1589年)、毛利氏は本拠地をそれまでの居城であった吉田郡山城から広島へ移すこととし広島城の築城を開始。築城に際しては就辰と穂井田元清が普請奉行となったが、城地の選定にも就辰が関わったとする説もある。財政的に厳しい中での築城ではあったが、就辰は勤勉に、苛烈に、時には奇策をも用いて厳しい財政的難局を乗り切り、広島城は一応の完成に漕ぎ着けたと伝えられている。特に築城予定地の川の三角州の地盤改良に、当時まだ一般的ではない工法を用い、軟弱な地盤に巨城を構築させる事に成功した。 天正19年(1591年)の毛利総国検地[3]の際にも中心として働くなど、数多くの大任を果たし、天正20年(1592年)2月20日に輝元から2172石余を加増される。 天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役の後、輝元が朝鮮から帰国した文禄2年(1593年)8月以降、毛利氏の中央行政は、就辰、榎本元吉、佐世元嘉、堅田元慶、張元至の5人の輝元出頭人が担うようになった。
前半生
広島城築城
輝元出頭人として