二又トンネル爆発事故
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「二又トンネル」はこの項目へ転送されています。「二股トンネル」とは異なります。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年9月)

二又トンネル爆発事故爆発事故2日後の現場を写した写真。
事故前にはトンネルの上にあった山が、事故後に吹き飛ばされているのが見て取れる。
日付1945年(昭和20年)11月12日
場所福岡県田川郡添田町落合
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度29分43秒 東経130度52分11秒 / 北緯33.49528度 東経130.86972度 / 33.49528; 130.86972
死者・負傷者
147人死亡
149人負傷
テンプレートを表示

二又トンネル爆発事故(ふたまたトンネルばくはつじこ)は、1945年昭和20年)11月12日福岡県田川郡添田町で発生した爆発事故。

同町落合の日田彦山線彦山駅から南方500メートルにあった二又トンネル(鉄道路線は未開通)において、アメリカ軍が当トンネル内に保管されていた大日本帝国陸軍火薬を焼却処理しようとしたところ、点火から約2時間後に大爆発を起こし、山全体と多数の民家が吹き飛ばされて死者147人、負傷者149人、家屋135戸が被災する[1]大惨事となった。
二又トンネル

日田彦山線の二又トンネルは彦山 - 筑前岩屋間にあったトンネルで、釈迦岳の丸山をくりぬいて作られたもので全長約100メートルであった。

当時の日田彦山線は全線開通しておらず、小倉方面から添田駅までは「添田線」、添田駅から彦山駅までは「田川線」の名称で、また夜明駅から宝珠山駅までは「彦山線」としてそれぞれ開通していたが、このトンネルを含む彦山 - 宝珠山間だけが未開通のままであった。これは、彦山 - 筑前岩屋間にこの二又トンネルの他、吉木トンネル(全長59メートル)、釈迦岳トンネル(全長4380メートル)の計3つのトンネルが作られる計画で、二又トンネルと吉木トンネルは完成していたものの、釈迦岳トンネルが戦争激化によりその工事を中止していたことが原因であった。
状況と経緯
火薬搬入まで

沿線付近には多くの軍事施設があったが、そのうち陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所(現在の北九州市小倉北区にある山田緑地)にあった火薬倉庫の一棟が1944年6月16日空襲により焼失した。このため、西部軍司令部の指令により新たな倉庫を探していたところ、当トンネルと吉木トンネルが空襲の被害から安全と思われ、適切な地下火薬庫であるとされた。

これにより1944年7月から1945年2月にわたって搬入が行われた。彦山駅まで列車で運ばれてきた火薬類はトロッコによってトンネルに搬入され、女性が主にこの作業に当たった。
事故直前

1945年8月15日日本が降伏し、第二次世界大戦は終結した。連合国福岡地区占領軍は添田警察署と責任者で山田填薬所長だった陸軍少佐に対して火薬類の引き渡しを指示したため、陸軍少佐は8月30日までに在庫確認したが、それによると二又トンネルには532,185キログラムの火薬及び爆弾の信管185キログラムが保管されていたという。また地元住民4名が軍属として火薬管理を行っていた。

11月8日、火薬類の品目、数量を記載した「兵器現況表」が添田警察署において警察署長立ち会いのもとで陸軍少佐から占領軍の中尉に手渡され、事実上これをもって火薬類の管理は旧日本陸軍から連合軍に引き渡された。この時陸軍少佐は現地での確認を申し出たが、連合軍は引き渡し以前からこの火薬の隠匿情報を入手していたため、現地にて確認済みとして現地立ち会いは省略された。

それから4日後(事故当日)、連合軍のH・エルトン・ユーイング少尉が下士官2、3名を連れて添田警察署へ向かい、トンネルにある火薬を焼却処分するから警察官3人と作業人夫10人を差し出すように命令した。添田警察署からは警部補、巡査部長、巡査2人の計4人が同行した。

一行はまず吉木トンネルに到着。少尉は火薬を焼却しても危険性がないとして、先に試験的に爆薬に点火し爆発しないことを確認した上で、警察官たちに焼却処分しても危険性のないことを説明して、警察官たちがその旨を付近住民に伝えた。そして保管していた火薬を長さ20メートル、幅1メートルほど散布してこれを導火線とし、その末端に粉末1塊を置いた後、点火前に付近住民を避難させた。13時に下士官が点火、その後しばらく様子を見守っていたが爆発の可能性はないものとして13時30分ごろ吉木トンネルを離れ、14時ごろ二又トンネルに到着した。

点火時刻を15時と決めた連合軍一行は吉木トンネルと同様に、トンネルの北側入口(彦山駅側)から約10メートル程離れたところから導火線を作り、全員をトンネルから100メートル北方へ避難させ、15時ごろに下士官が導火線に点火した。様子を見守っていた連合軍兵士一行はこちらも爆発の可能性はないとして、巡査部長に後を託して15時30分ごろにジープで基地へ引き揚げた。巡査部長はトンネル付近に住民が近寄らないように見張りを立たせていたが、点火から約2時間後、事故が起こった。
事故発生


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef