広沢 虎造(ひろさわ とらぞう、1899年〈明治32年〉5月18日 - 1964年〈昭和39年〉12月29日)は昭和時代の浪曲師、俳優[1]。東京府東京市芝区白金(現東京都港区白金)出身[2]。本名は山田信一、旧姓は金田。 少年時代から浪花節を好み、腕自慢の素人として天狗連で15-16歳ごろには「東川春燕」の名で人気を取っていた。共立電気電線(現在のアンリツ)に就職していたが、それを辞める[3]。電気工事の職人として、東京駅の大時計取り付け作業もしたという[4][5]。地元の初代木村重松や東家小楽燕 徴兵検査で麻布第三連隊に入営したのを機会に帰京。師匠譲りの関西節から、中京節の鼈甲斎虎丸や関東節 1926年(大正15年)5月30日ラジオ初放送。演目は「次郎長と勝蔵」[17][18]。虎造を一躍有名にしたのは、既に次郎長伝を皮切りにラジオに出演し、売り出し中のこの時期に、自身も巻き込まれた交通事故である。1933年(昭和8年)、世田谷碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため一行が移動中のタクシーが電車と正面衝突、虎造のマネージャーが即死、運転手の助手も危篤、運転手は2週間の重傷、虎造も瀕死の重傷を負うものの、命は助かった。この事故を新聞各紙が報道する[19]。その後、1938年(昭和13年)後楽園球場で独演会[20][21][注釈 1]を開くなど、その名調子は虎造節として一世を風靡[22]、また戦前から映画に積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていた(タナ読み、節劇から映画出演に流れた形式)。映画出演に関して吉本興業のマネジメントを受けるだけでなく、浅草花月 戦後にも全盛は続き、浪曲の枠を超えた人気者の虎造は、民放の登場により、ラジオ浪曲ブーム
目次
1 来歴
1.1 上京まで
1.2 上京
1.3 虎造ブーム
1.4 戦後
2 代表的な演題
3 劇場出演
4 主な出演映画
4.1 戦前
4.2 戦後
5 ラジオ
6 関連映画
7 関連項目
8 脚注
8.1 注釈
8.2 出典
9 参考文献など
9.1 画像資料
10 外部リンク
来歴
上京まで
上京
虎造ブーム
戦後