二代目広沢虎造
[Wikipedia|▼Menu]

広沢 虎造(ひろさわ とらぞう、1899年明治32年〉5月18日 - 1964年昭和39年〉12月29日)は昭和時代の浪曲師俳優[1]東京府東京市芝区白金(現東京都港区白金)出身[2]。本名は山田信一、旧姓は金田。
目次

1 来歴

1.1 上京まで

1.2 上京

1.3 虎造ブーム

1.4 戦後


2 代表的な演題

3 劇場出演

4 主な出演映画

4.1 戦前

4.2 戦後


5 ラジオ

6 関連映画

7 関連項目

8 脚注

8.1 注釈

8.2 出典


9 参考文献など

9.1 画像資料


10 外部リンク

来歴
上京まで

少年時代から浪花節を好み、腕自慢の素人として天狗連で15-16歳ごろには「東川春燕」の名で人気を取っていた。共立電気電線(現在のアンリツ)に就職していたが、それを辞める[3]。電気工事の職人として、東京駅の大時計取り付け作業もしたという[4][5]。地元の初代木村重松や東家小楽燕に弟子入りを志願する。が小音と断られ、どうしてもプロになるべく、冨士月子の手引きで講釈師の旭堂麟生のもとに19歳の時に通ってネタを仕込む[6]。後に「修業(芸を磨くの)は関西で、人気(を上げるの)は東京(関東)で」と(芸界で)よく言われる[7][8]ように当時関西浪曲界の巨頭であった浪曲師2代目広沢虎吉に弟子入りする。初め広沢春円[9]、広沢天勝、後に天華と名乗る。1922年[10]23歳で2代目広沢虎造を襲名。
上京

徴兵検査で麻布第三連隊に入営したのを機会に帰京。師匠譲りの関西節から、中京節の鼈甲斎虎丸や関東節の木村重松らの節回しを独自に取り入れた節回し、(後に虎造節と呼ばれるようになる)に節を作り変え、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。持ちネタは国定忠治雷電爲右エ門、祐天吉松、寛永三馬術など多岐に渡り、中でも人気を博したのが、講談師・3代目神田伯山の十八番を、追い掛け回して習得した『清水次郎長伝』であった。虎造本人が途中から伯山に弟子入りしたと言い分を変えているが、これは誤りで弟子の神田ろ山から習った[11][12][13]。とりわけ森の石松を題材にし、特に「呑みねえ食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない[14]」の「森の石松三十石船道中」が知られ[15]大ヒットしたフレーズは、ラジオ放送の普及も相まって、戦前戦後を通じて国民的な流行語となった。虎造自身の声は小音で、マイクが無い時代に大きな会場だと後ろから「聞こえん!もっと大きな声を出せ!」とヤジが飛ぶほどであったが、ラジオやレコードの登場に助けられたのである[16]
虎造ブーム

1926年(大正15年)5月30日ラジオ初放送。演目は「次郎長と勝蔵」[17][18]。虎造を一躍有名にしたのは、既に次郎長伝を皮切りにラジオに出演し、売り出し中のこの時期に、自身も巻き込まれた交通事故である。1933年昭和8年)、世田谷碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため一行が移動中のタクシーが電車と正面衝突、虎造のマネージャーが即死、運転手の助手も危篤、運転手は2週間の重傷、虎造も瀕死の重傷を負うものの、命は助かった。この事故を新聞各紙が報道する[19]。その後、1938年(昭和13年)後楽園球場で独演会[20][21][注釈 1]を開くなど、その名調子は虎造節として一世を風靡[22]、また戦前から映画に積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていた(タナ読み、節劇から映画出演に流れた形式)。映画出演に関して吉本興業のマネジメントを受けるだけでなく、浅草花月など当時吉本が東京に持っていた多くの劇場にも出演、半ば吉本の専属状態となっていた。当時の出演映画には、出演者として「廣澤虎造(吉本興業提供)」とクレジットされているものもある(『エノケン・虎造の春風千里』など)[要出典]。1940年(昭和15年)晩夏[23]、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい[24][誰によって?]。
戦後

戦後にも全盛は続き、浪曲の枠を超えた人気者の虎造は、民放の登場により、ラジオ浪曲ブームのけん引役として、連続読み番組(ラジオ東京の俗称「虎造アワー」)を長年持つことになる。開局翌日1951年12月26日には『次郎長伝』のうち「石松代参」[25]が開始され、戦前のNHKの年数度の放送から、この週1度の連続読み番組で34%、民放で独走トップの高聴取率[26]を獲得する。当時の銭湯では虎造の「〽旅行けば」と節まねをしてうなる声が頻繁に聞かれたというエピソードが、昭和史の一面として残されている[27]1959年(昭和34年)に[28]脳溢血で倒れ、言語障害を発症。リハビリに取り組むも回復せず、1963年(昭和38年)の引退興行をもって浪曲界から身を引き、翌1964年(昭和39年)死去した。65歳没。戒名は「松寿院a道日信居士」。3代目虎造は弟子の虎之助が1966年(昭和41年)に襲名。虎造の死後、浪曲界には虎造に続く図抜けた大スターが生まれず、以降浪曲界は、現在まで続く長い冬の時代を迎えることになる。だが虎造本人に関しては死後50年経って、『清水次郎長伝』を全く知らなかった世代も巻き込んで、未だに評価されている[29][注釈 2][30][31]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef