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「神戸山口組」とは異なります。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932(はしご高))が含まれています(詳細)。
六代目山口組「山菱」の代紋(組織の標章)
設立1915年
設立者山口春吉
設立場所 日本・兵庫県神戸市兵庫区西出町
本部〒657-0067
日本・兵庫県神戸市灘区篠原本町4-3-1[1]
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度43分12秒 東経135度13分34.9秒 / 北緯34.72000度 東経135.226361度 / 34.72000; 135.226361
山口組(やまぐちぐみ[2])は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の特定抗争指定暴力団[3]。分裂した神戸山口組や任侠山口組(現在の絆會)と区別して六代目山口組(ろくだいめやまぐちぐみ)(現在の組長が6代目であることから)とも呼ばれる[4][5]。
組員数は約7,400人(構成員約3,500人、準構成員約3,800人)[1]。2023年末時点で、山形・広島・沖縄の各県を除く44の都道府県に系列組織を置いている[6]。住吉会・稲川会や、神戸山口組とともに、国家公安委員会から主要暴力団に位置づけられている[1]。 山口組の組員は1名の組長(親分)と数名の舎弟(弟分)および数十名の若中(子分)から成る計100人弱に過ぎないが、組長を除く全組員は、それぞれが少ないところで数十人、多いところで数千人の構成員を抱える暴力団組織の首領であり、直参(直系組長)と呼ばれる。 菱形の中に“山”の文字を描いた“山菱”(やまびし[7])と呼ばれる意匠のマークを組織の標章、いわゆる代紋としている[8]。 2014年の米経済誌『フォーチュン』の調査によれば、山口組の収益は年間66億ドル、日本円で約7,150億円に及ぶとされる[9]。これはロシアンマフィアに次ぎ、イタリアマフィアの最大組織・カモッラの収益を凌ぐ規模にあたる[10]。なお、フォーチュンは当初、山口組の年間収益を800億ドル(約8兆6,800億円)と誤って報じたが、これは2006年に元公安調査官の菅沼光弘が記者会見にて「渡辺芳則が組長だった五代目山口組時代(1989年から2005年)の収入は8,000億円」と発言したもの[11][12]を誤訳した為である。 “神戸ヤクザの頂点”と言われる「運河ノ親分」こと大嶋秀吉が率いた大嶋組
概要
来歴
黎明日露戦争従軍を終えた山口春吉は折から急激な発展を見せていた神戸港に新天地を求め、海運業の労務者となってのち大嶋組に下属。その大嶋組を率いた大嶋秀吉の主従関係を上位に辿ればやがては九州筑豊の吉田磯吉に行き着いた。[13] ― 1930年頃の神戸港
しばらくは大嶋組の傘下にあって活動したものの、いつしかその勢力は本家の大嶋組を凌ぐものとなり、1925年(大正14年)における春吉の長男で「切戸の親分」登の二代目襲名を経て、神戸中央卸売市場の開設に伴う利権を巡り大嶋組と対立、死者を伴う激しい抗争の末に同卸売市場の運搬作業の独占権を得るに至り、1932年(昭和7年)をもって大嶋組から独立した[13]。 1942年(昭和17年)における山口登の死後、しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年(昭和21年)に田岡一雄を首領に据えた三代目体制が発足[13]。この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代(1955?1964)から昭和40年代(1965?1974)にかけて日本全国各地へ進出、対立抗争を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった[14]。 田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。それが1965年(昭和40年)までに、傘下424団体、総勢9,450名を数える巨大組織に発展。その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、「小松島抗争」、「明友会抗争」、「鳥取抗争」、「博多事件」、「広島代理戦争」、「松山抗争」などが主要なそれであった[13]。1971年9月25日、「麻薬撲滅決起集会」を開催した湊川神社(その9年前1962年撮影)
三代目?急成長