二・二八事件
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二・二六事件」とは異なります。

二・二八事件

抗議する市民たち

1947年2月28日 - 5月16日
場所 中華民国 台湾省
結果中国国民党政権による市民の虐殺

衝突した勢力
国民政府
台湾省行政長官公署
中国国民党台湾人本省人

二・二八事件(ににはちじけん, 台湾語白話字: J?-j?-pat S?-ki??)とは、1947年民国36年)2月28日台湾省台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中華民国政府による長期的な白色テロ、すなわち民衆への弾圧虐殺の引き金となった事件[1]

1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。台湾人は多くの地域で一時実権を掌握したが、中華民国国民政府中国本土から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。
背景中国国民政府軍と官員を出迎える台湾の学生たち(1945年)

1945年日本が敗戦した後の台湾では、カイロ宣言に基づき、連合国軍の委託を受けて、日本軍の武装解除を行うために、中国本土から?介石主席率いる中華民国国民政府中国国民党官僚軍人らが同地へ進駐し、「失地回復」という名目で台湾の行政を引き継いでいた。

台湾の人たちは中国本土から来た官僚軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの汚職の凄まじさに驚き、失望した。中国本土から来た官僚・軍人は、当時の日中戦争国共内戦の影響で質が悪く、強姦強盗殺人を犯す者も多かったが、その犯人が処罰されぬことがしばしばあった。"Chinese Exploit Formosa Worse Than Japs Did"(日本人よりも過酷に台湾を搾取する中国人)(ザ・ワシントン・デイリーニュース)

たとえ罰せられる場合でも、犯人の籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、中国上海市の国際市場で競売にかけられるに到り、物資不足に陥った台湾では、相対的に物価は高騰、インフレーションによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。

台湾の経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった[2]。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい汚職、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。当時の台湾人はこれらの状況を「犬(日本人)去りて、豚(中華民国人)来たる」(狗去豬來)と呼んで揶揄した。
経緯.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)台北市民に焼き討ちされた専売局台北分局当時の弾圧を描いた木版画台湾省警備総司令部のビラ(中国語とともに日本語も併記している)

戦後の台湾では、日本統治時代専売制度を引き継ぎ・タバコ・砂糖等は全て政府によって専売された。しかし、中国本土ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。

1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた女性(林江邁、40歳、2人の子持ち寡婦)を、官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名と警察官4名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収した。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人である陳文渓に被弾・死亡させてしまい、逃亡した。

この事件をきっかけとし、民衆の政府への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に大挙して押しかけたが、庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した[3][4]

激怒した台湾人民衆は政府の諸施設を襲撃し、外省人の商店を焼いた[3]日本語台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せない人々もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、台湾人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、台湾人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ、立ち上がれ」と全島に呼びかけた[5]

3月1日からは各主要都市で民衆が蜂起して官庁や警察を占拠し、外省人を殴打した[3]台南では台南飛行場が占拠され、旧日本軍の飛行機で東京に飛んでマッカーサー元帥に陳情してGHQの占領下に組み入れてもらおうとする者もいた(機体の部品が欠損していたため果たせず)[5]高雄では要塞司令の彭孟緝がこれに対し武力掃討を行い、多くの死者を出している[4]

3月4日には台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立。事態の収拾に向けて、知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会も台湾各地に組織され、台北の同委員会は3月7日に貪官汚吏の一掃・省自治の実施・政府各機関への台湾人の登用などの改革を陳儀に要求した[3][4]

劣勢を悟った政府の長官府は、一時台湾人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では中国本土の国民政府に密かに援軍を要請していた。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を?介石に送っている。

国民政府主席?介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし[注釈 1]、3月8日に中国本土から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官医師役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄拷問され、その多くは殺害された。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、中華民国政権軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。


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