事任八幡宮
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出典検索?: "事任八幡宮" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年4月)

事任八幡宮

拝殿を望む
手前は天然記念物の大楠
拝殿脇に御神木の大杉
所在地静岡県掛川市八坂642
位置北緯34度47分54.20秒
東経138度4分31.54秒座標: 北緯34度47分54.20秒 東経138度4分31.54秒
主祭神己等乃麻知媛命
社格式内社(小)
遠江国一宮
県社
創建成務天皇年間
例祭敬老の日の前3日間
主な神事献茶祭、夏越・師走大祓祭、中酉祭など
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事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂にある神社式内社で、遠江国一宮旧社格県社。御神紋は「亀甲に卜象」「左三つ巴」である。目次

1 概要

2 祭神

3 歴史

4 摂末社

5 「いとたのもし」の解釈に関する批判

6 例大祭

6.1 歴史

6.2 氏子

6.3 祭礼の特徴

6.4 ご遷座1200年祭

6.5 ご遷座1210年

6.6 見どころ


7 現地情報

8 関連項目

9 外部リンク

概要

東海道沿いの、日坂宿および小夜の中山の西の入口、宮村にある。

当社と諏訪大社、特に下社春宮(長野県諏訪郡下諏訪町)、および修験道場として名高い戸隠山長野県長野市)は、ほぼ南北一直線上にある。

近隣を通る国道1号日坂バイパスの「ことのままトンネル」は事任八幡宮から命名された。
祭神
主祭神


己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)

興台産霊神の妻神で、天児屋命の母。
配神
3柱合わせて八幡大神と総称。

息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后

誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇

玉依比売命 (たまよりひめのみこと)

歴史

創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の治世としている。古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』には「己等乃麻知神社」と記載されている。

大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命によって、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられる。平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5年(1062年)、源頼義石清水八幡宮から八幡神を勧請し、日坂八幡宮(にっさかはちまんぐう)や八幡神社(はちまんじんじゃ)とも称されるようになった。

東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印高百石余りを献上するなど崇敬を集めた。また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。

明治以降は県社に列し、単に八幡神社と称した。第二次大戦後に「ことのまま」の名を復活させ、事任八幡宮とした。
摂末社

五社神社 - 五柱の神を祀る

稲荷神社

金比羅神社

「いとたのもし」の解釈に関する批判

昭和22年に、GHQの政教分離政策に伴い「社格」の制度が撤廃された際、由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づき、「事任八幡宮」を復活させたのが、現社名の始まりである。前述のとおり、事任八幡宮は「願いが『言のまま』に叶う」神社として古くから信仰されてきたという歴史がある。人々が、いつの時代からこのような考え方を持つように至ったのかは定かではないが、これは、この神社が「ことのまま」という名称を冠していることに由来している。清少納言の書いた『枕草子』には「ことのままの明神、いとたのもし」とある。この文句が、さまざまな文献の紹介文などに引用され、また、例大祭のポスターのデザインに使用されたこともあり、現代では人々のよく知るところにある。確かにこれだけを見ると、清少納言が事任八幡宮の力を評価し、感嘆している様に見え、「願いが言のままに叶う」を根拠づけていると言える。しかし、この文言の後を現代語訳すると次のようである。

≪原文≫布留(ふる)の社。龍田(たつた)の社。花ふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらんとをかし、ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき。

この時、“さのみ”以下を現代語訳すると「それほどお聞きになっていると言われていると思うと、大変興味深いことだ」となる。しかし、この時の“思ふぞ”の「ぞ」は、係助詞となっている。この「ぞ」は「いとをかし」の部分にかかって強調の役目を果たすが、清少納言は、願いがかなうと「言われている」のではなく、あえて「言われていると思う」ことを強調している。事任八幡宮の主祭神である己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われている。「ことよさし」という言葉は「ことよす」という語にさらに敬意を含めたもので、「高い神が御言葉を以て、また事になぞられて顕世に御力をする、真を伝えられる」の意味で、記紀にしばしば用いられている。すなわち、実際は天の声を己等乃麻知比売命が人々に伝えるというのが正確であり、人々の知るところとは逆である。つまるところ、清少納言は己等乃麻知比売命が人々の願いを天に伝えるという誤った解釈が世間に広まったことを、皮肉を込めて書き綴ったものが『枕草子』であるという主張が、今日でも「願いが言のままに叶う」として参拝する客が多い中で存在している。
例大祭

事任八幡宮例大祭は、日坂地区の古宮、下町、本町、川向の各町、八坂地区の宮村、塩井川原、影森、海老名の各町が参加して催される。近年はハッピーマンデー制度により、敬老の日を挟んだ9月の金・土・日曜の3日間で行われる。



歴史

例大祭が初めて行われた時期は定かではないが、1968年(昭和43年)9月14日付の新聞には「嘉永文久の年間5カ年にかけて、この辺一帯は干ばつに会い水田は亀裂して稲作は枯れ果て、一粒のコメも収穫できなかった。そこで八幡宮にて雨乞いのご祈祷をしたところ、雨が降ってきた。そのためこの年は豊作となった。豊作を祝う豊年祭が、青年会を中心に座敷舞台を作り、笛や太鼓でお囃子をやった。この座敷を動く座敷台にしたいということで屋台が作られた」とある。嘉永が1848年から1855年、文久が1861年から1863年であるから、少なくとも江戸時代にはこの祭が存在したことがうかがわれる。

1945年(昭和20年)ごろに日坂と八坂を結ぶ唯一の道路が国道1号に指定され、祭典としてこの道路を使用することができなくなった。このことによって日坂地区と八坂地区(宮村は地理的な関係で日坂地区として参加)の屋台は顔を合わせることはなくなった。2001年(平成13年)、日坂バイパス開通に伴って旧道となり、日坂と八坂をつなぐ区間は静岡県道415号日坂八坂線として静岡県へ移管され、37年ぶりに八坂地区が八幡宮に宮入りすることとなった。
氏子
日坂地区


古宮(洗心館)

下町(常盤閣)

本町(酔侠館)

川向(瑞川閣)

八坂地区


宮村(巍々蕩々)

塩井川原(明倫會)

影森(影寶館)

海老名(菊水館)

祭礼の特徴
朝顔屋台

例大祭では二輪屋台を使用する。特徴としては屋台上部が欄干状ではなく、障子状になっていることである。この障子の部分は上に向かって開いており、「朝顔」に似ていることから朝顔屋台と呼ばれる。


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