予戒令
[Wikipedia|▼Menu]

予戒令

日本の法令
通称・略称なし
法令番号明治25年1月28日勅令第11号
種類刑法
効力廃止
公布1892年1月28日
施行1892年1月28日
主な内容公共の安寧秩序を乱す行為に対する処罰
関連法令なし
条文リンク近代デジタルライブラリー
テンプレートを表示

予戒令(よかいれい)とは、廃止された日本の法令である。1892年(明治25年)1月25日公布、即日施行。
この勅令は、1914年(大正3年)1月20日に「予戒令廃止ノ件」(大正3年1月20日勅令第4号)によって廃止された。
沿革

1892年(明治25年)1月28日
第1次松方内閣において、「予戒令」(明治25年1月28日勅令第11号)が公布(緊急勅令)、即日施行

1913年(大正2年)12月20日第1次山本内閣において、「予戒令廃止ノ件」の草案が枢密院の審議に付される

1914年(大正3年)1月20日「予戒令廃止ノ件」(大正3年1月20日勅令第4号)の施行によって「予戒令」が廃止

概要

予戒令は浮浪者無産者、集会の妨害行為、他人の業務に干渉する者の取締を目的に制定された勅令である。具体的には、予戒令各条項に規定された罪を犯した者に対して、警視庁の長である警視総監内務省北海道庁の長である北海道庁長官、官選の府県知事に、「予戒命令」を発する権限を与えて、これを処罰した。
選挙干渉との関連性

予戒令の公布及び施行日の約3週間後、1892年(明治25年)2月15日に第2回衆議院議員総選挙が行われた。この選挙では、第1次松方内閣の品川弥二郎内務大臣白根専一内務次官らを中心として、内務省が大規模な選挙干渉を行ったことで知られている。この選挙干渉では民党候補者および支援者に対して、保安条例や集会及政社法などの治安立法の適用が行われ、選挙運動から発展した抗争により、複数の府県で死傷者を出す事態が起きた。

予戒令の制定目的は、近時において多発する「政談集会ヲ妨害シ議会議員ヲ脅迫スル…人民ニ対シ警察上ノ監督」[1]を行う必要があることを挙げている。しかし、予戒令が選挙実施の直近に公布施行された事実から、政府が選挙運動に対する準備として本令を制定したものと指摘する意見がある[2]。なお、府県知事などの地方官によって、民党候補者および支持者を対象とした予戒令の運用がされた事件[3]が起きたことがあった。
民党による廃案運動

予戒令は、施行および公布の年である1892年(明治25年)から、1914年(大正3年)に廃止される約22年間に渡って存続していたが、その期間において予戒令の廃案運動は複数回発生している。本項目では、民党による予戒令の廃案運動を採り上げる。自由党立憲改進党などの衆議院の民党各派は予戒令の廃止を目指し、第4回、第8回、第10回、第12回および第13回帝国議会衆議院において、予戒令廃止の「建議」を5回提出し、いずれも民党各派多数の衆議院において可決されている。

衆議院で過去5回に予戒令廃止の建議が可決したにもかかわらず、約22年間に渡って予戒令が存続した理由については「予戒令の廃止」にて後述し、ここでは、大日本帝国憲法における「建議」の性質について詳述する。

大日本帝国憲法第40条では、衆議院および貴族院の権能の1つに、法律または事件に関する議院の意見を政府に対して表明する手段として、「建議」を提出する権能を定めていた。しかしながら、政府に提出された「建議」は政府に対して何らかの措置を講じさせる法的拘束力が存在しなかったため、この建議は政府に対する議院の意見表明や問題追及としての手段以上の権能を有していなかった。つまり、衆議院で可決された決議が直接、予戒令を廃止する効力を持たなかったために、予戒令は1914年(大正3年)にこれを廃止する勅令が発せられるまで、その効力が存続していた。
予戒令の問題点
「憲法違反ノ法」

1892年(明治25年)1月25日に予戒令が公布および施行される以前、この勅令案を枢密院で審議する段階において、伊東巳代治枢密院書記官長は予戒命令の効力である「適法な生業又は業務に従事すること(第2条第1号)」「集会の妨害行為を禁止させること(第2条第2号)」が、大日本帝国憲法第22条の定める居住及移転ノ自由[4]、同法第27条第1項に由来する営業ノ自由、同法第29条集会ノ自由の文言に抵触する可能性を指摘した。

これは、各法条にある「法律ノ範囲内ニ於テ」の「法律」の意味が、国民代表議会である帝国議会が制定した「法律」又は「その法律によって委任された命令」を意味し、予戒令は帝国憲法第9条の定める「勅令(独立命令)」である以上、行政機関の権限によって人民の権利義務を制約することは憲法違反である可能性が指摘されたためであった[5]。しかしながら、予戒令が定める制限は「原案ノ骨子ナレハ之ヲ除去スルコトヲ得ス[5]」として、伊東巳代治は勅令の成立に肯定的な意見を付託した。

また、内閣顧問として活躍したドイツ人ヘルマン・ロエスレルは、予戒令の審議における参考意見としての答議を残している。ロエスレルは、予戒令第2条各号の予戒命令の規定に関し、強制的に生業または職業に従事させることの適法性についての疑問を呈しながら、「公共並ニ国家ノ利益の為ニ…禁遏(きんあつ)スルヲ得ヘシ[6]」と判断し、勅令制定の正当性を挙げた。

民党側も予戒令の各法条が帝国憲法に抵触しているという認識を持っており、第4回帝国議会に提出された「予戒令廃止ノ建議[7]」では、予戒令第3条の予戒命令を受けた者の住居変更報告義務に関して、帝国憲法第22条の「居住及移転ノ自由」を軽んじる「憲法違反ノ法」であるとの批判を加え、予戒令の即時廃止を主張した。
「法令」の構造

「法令」は大きく分けて国民の代表議会が制定する「法律」と国の行政機関が定める法規範である「命令」の2つから成り立っている。「法律」には国家の組織と権限、統治に関わる基本原理を規定した「憲法」と国民代表議会が制定する「法律」が含まれている。行政機関が定める法規範である「命令」は国民の権利義務に直接関わる事項について規定した「法規命令」と行政機関内部における職員に対する業務命令、事務処理に関わる命令(「訓令」「通達」)等の「行政規則」から構成される。詳細は法令を参照
大日本帝国憲法における「勅令」

大日本帝国憲法において、前記の「法規命令」や「行政規則」のほかに規定された特殊な「命令」が存在していた。それは「勅令」という法形式である。
「勅令」は
大日本帝国憲法第8条及び第9条で定められており、第8条は緊急時に法律に代わるものとして発せられる「緊急勅令」(緊急命令)、第9条は立法権の例外として行政機関の権限によって発せられる「勅令」(独立命令)を規定していた。
大日本帝国憲法第8条
「緊急勅令」は、天皇が「公共の安寧を保持し」又は「災厄を避ける為」等の「緊急の必要」があり、かつ、帝国議会 が閉会している時に法律に代わって勅令を発する権限を有すると定めていた。その効力は、次の会期における議会の承諾を得た場合のみ、将来に渡って継続することができるとした。

帝国憲法第8条に基づく「緊急勅令」の例としては、田中義一内閣において公布された治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)の全面改正法である「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)[8]が挙げられる。
大日本帝国憲法第9条
「勅令」は、天皇が「法律を執行する為」又は「公共の安寧秩序を保持し」及び「臣民の幸福を増進する為」に必要な命令を発する権限を有すると定めていた。

法律や勅令などの立法権は天皇に由来し、天皇は内閣に法律案を起草させ、または議会の提案により両院の同意を経て、立法を行うことができるとされていた(大日本帝国憲法第5条)。なお、実際の勅令の制定は内閣輔弼(行政各部の事務について責任を有する大臣による事実上の承認、大臣の副署)を要するという形式を採用していた。
予戒令の執行状況

予戒令受命者数[表1][9]
(明治25年1月25日から2月15日まで)執行月日府県名対象人数(人)
2月2日山梨県7
2月6日石川県20
2月6日福島県16
2月6日奈良県10
2月9日新潟県3
2月10日茨城県1
2月10日鹿児島県7
2月12日京都府13
2月13日広島県6
2月13日長野県8
2月14日栃木県2
計11府県93

明治25年 第2回衆議院総選挙まで

1892年(明治25年)1月25日の予戒令の公布及び施行から同年2月15日に行われた第2回衆議院総選挙までの約3週間の間に、全国の11府県で予戒令が執行され、予戒命令を受けた人数は93人と推定されている[10]。そのうち、選挙実施日までに民党の候補者および支援者が予戒令の適用を受ける事態が発生している。同年2月6日に福島県の自由党員16名、2月7日に石川県河北郡の民党の郡参事会員と村長、2月11日に茨城県の立憲改進党員1名が同令の適用を受けたと報道されている[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef