亀田忠
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亀田 忠
Tadashi Kameda
亀田忠(右)(1937 - 1938年。左はバッキー・ハリス
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ハワイ準州オアフ島
生年月日1912年9月8日
没年月日 (1976-09-22) 1976年9月22日(64歳没)
身長
体重176 cm
83 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1938年
初出場1938年5月1日
最終出場1941年5月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


アンドリュース高校

ハワイ大学

ホノルル朝日

イーグルス
黒鷲軍
(1938 - 1941)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

亀田 忠(かめだ ただし、1912年9月8日 - 1976年9月22日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手投手)。日系二世である。大阪タイガースに所属した亀田敏夫は実弟。

シーズン与四球の日本記録保持者(280与四球)。
来歴・人物

1938年にイーグルスに入団。速球と大きく落ちるカーブを武器に活躍した。反面、コントロールに難があり、「三振か四球か」という豪快なピッチングであった[1]。1940年と1941年の2度ノーヒットノーランを達成しているが、そのときもそれぞれ9個、6個の四死球を記録している。また、1939年にはノーヒットに抑えながら10四死球と2失策で失点(2-1で勝利)という試合も記録した。三振と四死球にまつわる記録には事欠かず、以下のようなものを残している。

1938年9月16日、対巨人戦で延長14回を投げ、20奪三振。これは現在も延長戦も含めた場合の1試合最多奪三振記録である。ただし、この試合でも序盤は四球に苦しみ、結果は引き分け(5-5)であった。

1940年のシーズンに297奪三振を記録。これは当時のプロ野球記録[2]で、戦後の1955年に金田正一が350個の記録を樹立するまで破られなかった。

1939年のシーズンには283個の与四死球を記録し、こちらは現在もプロ野球記録。翌1940年も282個を記録した。在籍中の通算では一試合(9イニング)平均6.32個の与四死球を記録し、これは平均被安打(5.89本)より多い。押し出しも通算で34個という成績であった。

1941年6月、日米関係の悪化に伴い、アメリカ政府の命令により、実弟の敏夫や堀尾文人(阪神)・長谷川重一(黒鷲)とともに帰国した。帰国した1941年を除きすべてチームの試合数の半分以上に登板した[1]。戦後1947年に来日して、後楽園球場でプロ野球観戦をしている。戦後はハワイ州政府に勤務した[3]

1976年、脳梗塞で死去した。
詳細情報
年度別投手成績




















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W
H
I
P

1938イーグルス
黒鷲軍
29191750129----.571788187.21053143--11375056432.061.32
1938秋23191510710----.412738169.21096127--01314070482.541.39
1939554130401427----.3411641371.03068280--32081421841273.081.58
19405646431002623----.5311837456.22476273--929760127901.771.14
1941161181169----.400490113.082575--0544253393.111.39
通算:4年1791361132116578----.45554941298.084928898--138273344903472.411.35


各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高。

イーグルスは、1940年に黒鷲(黒鷲軍)に球団名を変更

タイトル

最多奪三振:2回 (1938年春、1940年) ※当時はタイトルではない

記録

ノーヒットノーラン:2回 ※史上5人目[4]

1940年3月18日、対ライオン戦(阪急西宮球場)


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