亀渕友香
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亀渕 友香
出生名亀渕 捷子
生誕 (1944-11-03) 1944年11月3日
出身地 日本東京都
死没 (2017-10-22) 2017年10月22日(72歳没)
ジャンルゴスペル
職業歌手女優
活動期間1968年 - 2017年

亀渕 友香(かめぶち ゆか、本名:亀渕 捷子〈かめぶち かつこ〉[1]1944年昭和19年〉11月3日 - 2017年平成29年〉10月22日[2])は、日本ゴスペル歌手、ボイストレーナー女優
略歴

1944年、北海道札幌市に生まれる[3]。その後、東京で育つ[4][5]。実兄はニッポン放送の名物DJで後に同社社長・相談役を歴任した亀渕昭信。叔母はジャズシンガーだったという[6]

小学校の時、マヘリア・ジャクソン出演映画『真夏の夜のジャズ』を観て彼女の歌声に衝撃を受け涙を流す。以来サッチモ、ゴールデン・ゲイト・カルテット、アレサ・フランクリンなど、ゴスペルミュージシャンをヒーロー&ヒロインとし、ブルース、ジャズ、アフリカン音楽に至るまでの黒人音楽を聴きながら成長。

東京声専音楽学校オペラ科に在学中にミュージカルに出演しプロとして活動を開始し、大学は中退し1968年にR&Bグループ「リッキー&960ポンド」のボーカルとしてデビューする[7][8]。1980年、米国人と結婚のため渡米。1987年に帰国し離婚後、音楽活動を再開。ジャズライブ、ミュージカル、映画音楽、テレビ出演などの活動をしながら、ボイストレーナーとしても多くのミュージシャンを手がける。1993年、ゴスペルを主とするコーラスグループ「亀渕友香&VOJA(The Voices of Japan)」を結成。その後もライヴ、コンサート活動、アーティスト楽曲コーラス、TVバックコーラス、小中高校での芸術鑑賞会、特別支援学校(養護学校)でのライヴなど、幅広く活動してきた。2008年には「第1回・野口英世アフリカ賞」の授賞式および記念晩餐会で、上皇明仁上皇后美智子夫妻や歴代の内閣総理大臣、アフリカ各国の大統領や国王の前で演奏。2009年より、ソロライヴ活動を再開。ジャズスタンダードや、アコースティック編成など様々なジャンルでライヴ活動を行った。

1998年から2006年まで「VOJAコーラスアカデミー」の学長を務めた。2007年には名称を変え、「VOJA Voice Art College」を開校し学長を務めた。

2004年12月にはJ-POPグループの「DEEN」とのコラボレーション楽曲を完成させ、ヒットとなる。2007年3月には、1974年3月に発売されたファースト・ソロ・アルバム「Touch Me, Yuka」が紙ジャケットCDにて限定生産ながら復刻された。

ボイストレーナーとして指導したミュージシャンには杏里山下久美子久保田利伸大黒摩季MISIASPEED倖田來未MAX小沢健二和田アキ子平松愛理研ナオコ平井堅持田香織和央ようか米倉涼子観月ありさ田中ロウマらがいる。

2014年頃に肝細胞がんを患い、闘病中に腰椎や胸椎を骨折しつつも活動を続けてきたが、2017年10月22日、肝細胞癌により神奈川県川崎市内の病院で死去[9][2][10]
作品
シングル

降ればどしゃぶり / 命が三つあったなら(ポリドール、DR-1824)

ジグザグ(酔いどれ天使のポルカ) / ひとりぼっちのトランプ(1975年、キティ・レコード、DKQ-1023)

ジュエル(1991年9月30日)


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