亀山天皇
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亀山天皇

第90代天皇
在位期間
1260年1月9日 - 1274年3月6日
正元元年11月26日 - 文永11年1月26日
即位礼1260年2月10日(正元元年12月28日
大嘗祭1260年12月29日(正元2年11月26日
元号正元
文応
弘長
文永
時代鎌倉時代
先代後深草天皇
次代後宇多天皇

誕生1249年7月9日建長元年5月27日
崩御1305年10月4日嘉元3年9月15日
亀山殿
大喪儀1305年10月6日(嘉元3年9月17日
陵所亀山陵
追号亀山院
(亀山天皇)
諱恒仁
別称金剛源(法名)
禅林寺殿
万里小路殿
文応皇帝
元服1259年2月21日正元元年1月28日
父親後嵯峨天皇
母親西園寺?子(大宮院)
皇后洞院佶子(京極院)
中宮西園寺嬉子(今出川院)
女御近衛位子(新陽明門院)
子女後宇多天皇
恒明親王
ほか(后妃・皇子女節参照)
親署
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亀山上皇像(福岡市博多区、東公園)

亀山天皇(かめやまてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:龜山天皇、1249年7月9日建長元年5月27日〉- 1305年10月4日嘉元3年9月15日[1])は、日本の第90代天皇(在位:1260年1月9日正元元年11月26日〉- 1274年3月6日文永11年1月26日〉)。は恒仁(つねひと)。

後嵯峨天皇の皇子。母は中宮・西園寺?子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。南朝大覚寺統)の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の南朝と後深草系の北朝持明院統)による対立が生じる端緒となった。

皇家の人間ながら、当時の新興宗教である禅宗律宗を手厚く保護した。五山別格とされ臨済宗寺格第一である南禅寺は、無関普門(大明国師)に帰依した亀山天皇の勅願によるものである。また、真言律宗の開祖である西大寺叡尊(興正菩薩)にも深く帰依した。禅律振興政策は孫である後醍醐天皇、および後醍醐を敬愛した足利尊氏に継承された。

元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時の治天の君でもある(天皇は子の後宇多天皇)。
略歴

正嘉2年(1258年)8月、惨烈を極めた正嘉の飢饉の最中、10歳で立太子、翌正元元年(1259年)兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚。即位には父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向があったとされる。

文永2年(1265年)には、クビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮熊野三山[2]で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉った。父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、文禄年間、筑前国領主小早川隆景が楼門を造営した時、臨写拡大したものという。

文永3年(1266年)、第6代鎌倉幕府将軍となっていた異母兄の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって惟康王が将軍に就任した。

文永4年(1267年)には皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生み、翌文永5年(1268年)後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てた。文永9年(1272年)2月に後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室荘園の問題が起こる。後嵯峨法皇は治天の君の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされたため幕府に問い合わせたところ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い返し、大宮院による内意は後深草上皇ではなく亀山天皇であったとする証言から亀山天皇親政と定まる。文永11年(1274年)1月、亀山天皇は皇太子世仁親王に譲位して院政を開始。亀山上皇は院評定制の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「徳政興行」と評された。

また、後深草上皇の血統(持明院統)とは別に、自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統が分裂して交互に皇位継承を行う両統迭立の端緒となる。後深草上皇が出家の意向を示すと、幕府は持明院統の冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子熙仁(伏見天皇)の立太子を推進。建治元年(1275年)に熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる。続いて弘安9年(1286年)には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下された。

だが、亀山上皇は関東申次西園寺実兼との不和に加えて、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しかった事が幕府を刺激する。このため弘安10年(1287年)10月には後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる。さらに、鎌倉では鎌倉将軍惟康親王が廃されて後深草上皇皇子の久明親王が将軍になり、持明院統に有利な情勢が続いた。

正応2年(1289年)9月、亀山上皇は南禅寺で出家して、法皇となる。法名は金剛源。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。その一方で、好色ぶりでも知られ、出家後も様々な女性と関係をもって多くの子供を儲けている。また、琵琶・催楽馬・神楽朗詠など様々な芸能に通じ、持明院統の後伏見上皇(大甥にあたる)の願いを受けて、乾元元年(1302年)には蹴鞠を、翌年には朗詠を伝授している[3]


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