亀井文夫
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実業家の「亀井文雄」とは別人です。

かめい ふみお
亀井 文夫

生年月日 (1908-04-01) 1908年4月1日
没年月日 (1987-02-27) 1987年2月27日(78歳没)
出生地福島県相馬郡原町(現・南相馬市
職業映画監督

 受賞
毎日映画コンクール教育文化映画賞
『人間みな兄弟 部落差別の記録』

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亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日-1987年2月27日)は、日本の映画監督

福島県原町(現・南相馬市)生まれ[1]、幼少時に仙台市門前町に転居し、南材木町尋常小学校(現・仙台市立南材木町小学校)に通う。早稲田中学校卒業。

1928年文化学院大学部を中退後[2][3]、ソビエト美術を学ぶため1929年ソビエトへ渡る[4]。ソビエトで見た映画に感動し、映画の道を志し、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になった[4]のが映画監督になるきっかけ。

特に記録映画の分野で活躍し、社会派の記録映画とともに、自然科学分野の記録映画、企業映画などもつくった。
略歴

1933年ソ連留学時代に罹った肺結核回復後、写真化学研究所(PCL)に入社。

1935年、『姿なき姿』で監督デビュー。

1938年、『上海』『北京』。

1939年、軍部の後援で監督した『戦ふ兵隊』の上映禁止。

1941年、映画人のなかで唯一、治安維持法違反容疑による検挙・投獄、演出家資格抹消を経験[5]

1946年吉見泰と共同で編集した『日本の悲劇』がGHQによって上映禁止処分。

1947年山本薩夫との共同監督の『戦争と平和』上映。東宝争議に巻き込まれる。

1949年、『女の一生』監督。

1950年連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの対象者となるが[6]山本薩夫らとともに独立プロダクション新星映画社で活動。

1952年、劇映画『母なれば女なれば』監督。

1953年、劇映画『女ひとり大地を行く』、『基地の子たち』監督。

1954年4月、独立プロ「日本ドキュメントフィルム」を創立。

1956年、『生きていてよかった』、『麦死なず』。

1957年、『流血の記録――砂川』。撮影スタッフのひとりとして、勅使河原宏が参加[2]

1957年、『世界は恐怖する――死の灰の正体』[7]


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