乾六一
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乾六一の墓碑(東京・品川)

乾 六一(いぬい むいち、明治30年(1897年11月14日 - 大正7年(1918年12月6日)は、伯爵板垣退助の五男[1]。乾源五郎家の末代当主。母は福岡孝弟子爵の養女絹子(きぬこ)。退助61歳の時の子ゆえ、「六一」と名づけられた。別名は板垣六一。
来歴

板垣退助が1868年慶応4年)の戊辰戦争の際、氏を「乾」から旧来の「板垣」に戻したため、乾の名を残さんがために次男正士、五男六一を乾家の養子とした。

乾源五郎家は、1648年慶安元年)に乾金右衛門正行の三男・乾友正(源五郎)が御小々姓として山内忠義に召し出され、別家を立てて以来の由緒ある家系である。乾友正は嗣子を欠いて1689年8月20日(元禄2年7月6日)に病死し断絶していたため、第二百十回忌にあたる1898年(明治31年)の2月23日板垣退助は生後3ケ月の板垣六一に「源五郎友正死亡跡絶家再興」の届出をさせ「乾源五郎家」を再興させた。これは、先に退助の二男・正士を、乾正厚の養子にさせたのと同じく、退助自身が、戊辰戦争の際に板垣に復姓したため、乾氏の姓を残そうとした意図であったと思われる[2]。しかし、のちには200年以上断絶していた家の再興より板垣家の名を広めることに重きを置き、乾六一に「乾源五郎家廃家」の届出をさせ、のち板垣家の戸籍に復籍させたため、退助の血縁筋で「乾」を名乗る家は乾正士の家のみとなった。

1918年(大正7年)12月6日死去。法名は賢良院殿諦観自性居士。東京北品川の東海寺高源院(現在品川神社の裏側にある墓所)に葬られた。翌年7月に死去した退助の墓も同じ墓域にある。
補註^ 墓石の記載による。
^ 『板垣会』会報第1号より

参考文献

『伯爵板垣退助先生年譜』憲政史編纂会収集文書

『御侍中先祖書系圖牒』高知県立図書館寄託文書

『無形板垣退助』
高知新聞社1974年










板垣氏当主
宗家

板垣兼信?-1190

板垣頼重1190-?

板垣頼兼

板垣行頼

板垣長頼

板垣頼房

板垣信房

板垣兼光

板垣信将

板垣信国

板垣信鑑

板垣信能?-1490

板垣信為1490-1515

板垣信泰1515-1530

板垣信方1530-1548

板垣信憲1548-1557

板垣信安1558-1579

板垣修理亮1579-1600

板垣半右衛門1605-?

板垣平右衛門

板垣知貞1651-1704

板垣信精1704

板垣久五左衛門1704-?

板垣知素

板垣信房

板垣致知

分家・支流
信憲流

板垣信憲1557-1557

板垣正信1557-1608

乾正行1608-1649

乾正祐1649-1672

乾正方1673-1715

乾正清1715-1736

乾直建1736-1760

乾正聰1760-1805

乾信武1805-1810

乾正成1810-1860

板垣退助1860-1919

板垣守正1919-1926

板垣正貫1926-1942

板垣退太郎1942-

守正流

(正貫兄)板垣守正1926-1951

板垣正明1951-2023

正直流

(正祐弟)板垣正直1644-1688

乾正房1689-1721

乾吉勝1722-1747

乾正英1747-1786

乾正壽1786-1829

乾正春1829-1830

乾正厚1831-1869

乾正士1869-1941

乾一郎1941-2000

高岡真理子2000-

友正流

(正祐弟)乾友正1648-1689

(208年間断絶した家を絶家再興)

乾六一1898-1903

(乾姓を絶家して板垣に復姓)無嗣断絶

土佐流

板垣喜右衛門1602-1631

板垣喜右衛門1631-1674

板垣喜右衛門1674-1738

板垣只平1738-1741

板垣宇助1741-1773

板垣喜助1773-1815

板垣惇平1815-1857

板垣堅助1857-1859

(弟)板垣高幸1859-1885

板垣四十六郎1885-1945

伴内流

板垣伴内

板垣伴内

板垣甚内

板垣政次

佐々木政清

(弟)佐々木権右衛門

佐々木権右衛門

(養子)佐々木権右衛門

(養子)佐々木登政

板垣政純

板垣政徳

板垣政一

板垣賛造

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女子

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