乾 一郎
生誕1908年(明治41年)1月13日
死没2000年(平成12年)9月19日
職業牧師・教育家・軍人
配偶者片岡富美子
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乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13日 - 2000年(平成12年)9月19日)は、日本の教育者(英語・ドイツ語科)、牧師、軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第9代当主[1]。板垣退助の孫[2][3][4]。日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師[5]。 1908年(明治41年)1月13日、高知県貫属士族・乾正士の長男として、高知県土佐郡潮江村412番屋敷に生まれる[1]。母は、長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地)高野直作の長女・八重野[6][7]。父乾正士は板垣退助の次男にあたるが、乾姓を称したのは、退助が戊辰戦争の際、乾姓から板垣に復姓したが、旧来の乾姓が無くなるのを惜しみ正士を後嗣の無い分家の土佐藩士・乾正厚の家督を相続させる形で残そうとした為である[8][9][1]。同様に退助は五男の六一にも、親族(廃家)の「乾源五郎友正」家を絶家再興する形で、一時、乾姓を名乗らせている(六一は後に板垣に復姓)[1]。 1909年(明治42年)2月25日、母・八重野の実弟の高野成雄が『養蚕実験真説』を著す[7]。 1919年(大正8年)1月12日、長姉・乾美世子[10]の婚約者である牧師・川瀬徳太郎が福岡県八幡市通町4丁目(現・福岡県北九州市八幡東区)に伝道所を開設[11]。1919年(大正8年)2月1日、長姉・乾美世子が川瀬徳太郎と婚姻[12]。1919年(大正8年)7月16日、祖父・板垣退助が東京府芝区芝公園第7号地8番の邸にて薨去[13]。 1921年(大正10年)4月8日、高知県立第一中学校(翌年「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名・高知県立高知追手前高等学校)に入学[12]。
来歴
幼年期
就学期