乞乞仲象
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乞乞仲象(きつきつ ちゅうしょう、生年不詳 - 699年)は渤海を建国した大祚栄の父。『新唐書』に粟末靺鞨の出身で、粟末靺鞨の酋長乞四比羽と共に営州都督の趙文?(中国語版)への反旗を翻した記載がある。
名前

乞乞仲象という名前はおよそ高句麗人とは考えられない靺鞨人の名前である[1][2][3]

稲葉岩吉は、舎利乞乞仲象の「舎利」は女真語の「泉の意」であることを指摘している[4]

史書にみえる祚栄の父乞乞仲象は「大」姓を冠せず、その名は明らかに本族語であり、姓氏「大」の採用は、祚栄が開国して王となって以後のことである[5]

現代の永順太氏一族は太仲象(乞乞仲象)を始祖として崇めている[6][7]
概要

井上秀雄は、大舎利乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 1][注釈 2]という官職は契丹における軍の指揮官であることから[8]、「舎利は『五代会要(中国語版)』巻三十渤海上に『有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓,舎利官,乞乞仲象名也』とあるので、官名であることがわかる。また『遼史』巻一一六国語解は『契丹豪民?裹頭巾者,納牛駝十頭,馬百疋,乃給官名曰舎利。』と記し、舎利とは、権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であったことがわかる。したがって乞乞仲象は、契丹系の豪族であったといえるだろう」と述べている[9][注釈 3]。萬歳通天中,契丹盡忠殺営州都督趙文?反,有舎利乞乞仲象者,與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走,度遼水,保太白山之東北,阻奥婁河,樹壁自固。

万歳通天(六九六)年間に、契丹の(李)尽忠は営州都督の趙文?に反逆して彼を殺した。(この乱に乗じた)舎利の乞乞仲象は、靺鞨の酋長の乞四比羽や高(句)麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って、太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奥婁河(牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた。 ? 新唐書、渤海伝.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。新唐書/卷219#渤海

一方、森安孝夫は「舎利を契丹の官職名とみなして大舎利乞乞仲象を契丹人となし、これと大祚栄をまったくの別人と考える説には賛成できない」と述べており[10]、その理由を「中国史料には靺鞨にも舎利なる語を含む官名の存在を示すものがあるし[注釈 4]、また渤海の建国に、異民族である契丹人が指導的な役割を果たしたとは、この場合は考えにくい」として、「大舎利乞乞仲象と大祚栄とはおそらくは父子であり、(中略)父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当」と述べている[10]

韓国の『斗山世界大百科事典』は「高句麗に服属していた粟末靺鞨人の酋長と推測されている」と述べており[11]、同じく韓国の『韓国民族文化大百科事典』は「乞乞仲象は、高句麗に併合された粟末靺鞨族出身で唐の営州地方に移って住んでいた」と述べている[12]
乞乞仲象と大祚栄の関係

新唐書』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『旧唐書』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、池内宏は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、鳥山喜一は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、新妻利久は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(『渤海国史及び日本との国交史の研究』)[9]

李尽忠(中国語版)の乱が起きたときに渤海建国の母体となった高句麗遺民集団と靺鞨集団が営州から東走したとされるが、このうち靺鞨集団を率いたのは乞四比羽であり、高句麗遺民集団の指導者は『旧唐書』で大祚栄、『新唐書』は乞乞仲象とあって異なる。これについて『新唐書』が参照した『渤海国記(中国語版)』の史料的性格を検討した古畑徹は、乞乞仲象 - 大祚栄という父子関係を認めた上で大祚栄にに叛いた者という傷を負わせないための渤海側の思慮によるものであり、事実として承認できるのは乞乞仲象が大祚栄の父であるということのみであるという見解を提出している[8]
脚注^ 朱国忱、魏国忠『渤海史』東方書店、1996年、18頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4497954589。 
^ 鳥山喜一『渤海史上の諸問題』風間書房、1968年、31頁。 
^ 池内宏『満鮮史研究 中世第一冊』吉川弘文館、1933年、10頁。 
^ 外山軍治『<學界展望> 渤海史研究の回顧』東洋史研究会〈東洋史研究 1(5)〉、1936年6月30日、488-489頁。https://doi.org/10.14989/138698。 
^ 吉本智慧子 (2008年12月). “Original meaning of Dan gur in Khitai scripts: with a discussion of state name of the Dong Dan Guo” (PDF). 立命館文學 (609) (立命館大学人文学会): p. 15. ⇒オリジナルの2016年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161019143454/http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/yosimoto.pdf 
^ “?? ???? ?? 太氏 ??? ??” (朝鮮語). ???? (2006年10月3日). 2022年9月7日閲覧。
^ ??? (2017年5月25日). “?? ??? ???? ?? ??? ???? ???…” (朝鮮語). ????. 2022年9月7日閲覧。
^ a b 佐藤信 編『日本と渤海の古代史』山川出版社、2003年5月1日、28-29頁。ISBN 978-4634522305。 
^ a b 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社東洋文庫283〉、1976年1月、426頁。ISBN 978-4582802832。 
^ a b 森安孝夫『渤海から契丹へ』学生社〈東アジア世界における日本古代史講座7〉、1982年、73頁。


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