九龍城砦
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九龍寨城
1989年の九龍寨城
各種表記
繁体字:九龍寨城
広東語?音:gau2 lung4 zaai6 sing4
広東語発音:ガウロンツァーイセン
日本語読み:きゅうりゅうさいじょう
英文:Kowloon Walled City
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九龍城砦(九龍城寨[1]、きゅうりゅうじょうさい、粤?:gau2 lung4 sing4 zaai6)は、現在の香港九龍九龍城地区に造られた城塞、またはその跡地に建てられていた巨大なスラム街を指す呼称。

日本では九龍城砦を「九龍城」(きゅうりゅうじょう、クーロンじょう)と表記されてきたが、香港本土で「九龍城」と言った場合は九龍城砦が存在した一帯の地域名あるいは行政地区名を指す。また、日本では九龍を「クーロン」とも読まれてきたが、現地でこの呼び方をしてもほぼ通じない。詳細は九龍を参照。
概要九龍寨城公園。南門の跡と門の扁額(2006年)

香港では一般に「九龍城砦」と呼ばれてきたが、正式名称は「九龍寨城」(きゅうりゅうさいじょう)という。これは1994年に当時のイギリス香港政庁が行った構造物解体時に廃棄物の中から発見された石製の大きな扁額により明確になった。この時、同時に砦時代の大砲の砲身なども見つかっており、貴重な文化財として九龍寨城公園内の資料館に保管されている。

1898年イギリス清朝から香港島や九龍に隣接する新界、及びランタオ島をはじめとする香港周辺200余りの島嶼部を99年間租借。九龍城砦は新界地区に所在していたが、例外として租借地から除外され清の飛び地となる。後にイギリスの圧力で清軍・官吏等が排除されてしまい、以後中国大陸中国国民党率いる中華民国となって以降も、事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となる。啓徳空港(1990年代)

1941年から1945年日本軍による香港占領期間中に、近隣の啓徳空港(旧:香港国際空港1998年に移転のため廃止)拡張工事の材料とするため城壁が取り壊された。1940年代中国内戦と、1949年中国共産党率いる中華人民共和国の樹立により、香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの流民がなだれ込みバラックを建設、その後スラム街として肥大化する。

1960年代から1970年代には高層RC構造建築に建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造と、どの国の主権も及ばずに半ば放置された環境から「東洋のカスバ」(アルジェのカスバ参照)、「東洋の魔窟」と呼ばれ、「アジアン・カオス」の象徴的存在となっていた。しかし1984年英中共同声明により香港が1997年に中華人民共和国に返還されることが確定すると1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、住民を強制移住させる方針を発表。

1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、その後すぐに行われた再開発後に九龍寨城公園 (Kowloon Walled City Park) が造成された。
歴史

九龍城砦には非常に多くの複雑な歴史的背景が絡んでおり、中国の近代や現代史にも密接に関係している。
近世(960年代 - 1830年代)

始まりは960年 - 1279年)時代に遡る。かつて香港や九龍半島にはたくさんの香木が生えていたほか、を産出しており、これらを輸出するための港が香港島南部の香港仔に開かれた。今日の「香港」という地名も「香木が集まる港」という意味合いから命名されたという説が最も有力である。

しかし香港付近の海域には当時しばしば海賊が現れ、周囲の治安を脅かしていた。このため現在の九龍城地区に軍事要塞が作られ、ここを拠点に香港の安全の確保を図っていた。として1668年に九龍烽火台が設置された。
近代(1840年代 - 1940年代)九龍城砦(1898年)城内に残る清代の建物

1841年イギリス清国との間で行われた阿片戦争に勝利。南京条約により清国から広州福州厦門寧波上海の5港の開港と香港島の割譲を認めさせた。1860年にはアロー戦争によって締結された北京条約により九龍市街の界限街以南の九龍半島が割譲された。この時点では九龍城砦はイギリス領よりわずかに外れた場所にあり、清国領内であった。

イギリスは1898年に、香港防衛を理由に深?河以南の新界 (New Territories) 地区とランタオ島をはじめとする香港島嶼部の200余りの島々を99年間の期限付きで租借した。この時九龍城砦は完全にイギリス領に取り込まれてしまったが、英清両国で取り決めた租借条約により九龍城砦は租借地から除外され飛び地化し、イギリスの香港防衛を妨げないという条件で引き続き清国役人が常駐した。しかし役人が祝い事で爆竹を鳴らしたことが、「イギリスの軍事活動の妨げになった」という理由で問題視され、清国の役人は九龍城砦から追放されてしまった。だが、イギリス側がこの時点で九龍城砦を占領することは条約違反となるのでこの場所を接収できなかった。

1911年辛亥革命に端を発し翌1912年1月には中華民国が樹立、1912年2月に宣統帝(愛新覚羅溥儀)の退位により中国政府としての清朝は滅亡した。この時点で九龍城砦本来の機能は終了した可能性が高い。しかし、施設管理については後続の中華民国も清国と同じくイギリスの抗議により実現できず、またイギリスによる城内管理は中華民国側の抗議により断念され、膠着状態に陥った。

なお、1941年12月に日本軍が香港を占領した際、要塞に建設されていた城壁が近隣の啓徳空港拡張工事の資材となり取り壊された。この日本軍の占領により九龍城砦の管理交渉は中断した。1945年8月には日本の第二次世界大戦敗戦により香港は再びイギリスの植民地となるが、この時期の香港は経済や治安など生活上全ての面で不安定な状況にあった。

その中で、戦前より続いていた?介石率いる国民党毛沢東率いる共産党の中国内戦(国共内戦)が激化し、多くの難民が身寄りを求め香港に押し寄せ、どの勢力の主権も及ばない九龍城砦にはそれらの人々がなだれ込んだ。1949年10月に中国共産党率いる中華人民共和国が樹立しても難民がなだれ込む状況は全く変わらなかった。
現代(1950年代 - 1990年代)九龍城砦の夜景(1993年)

城壁が取り壊されたことで、跡地には難民のバラックが建ち始める。中国大陸の情勢が落ち着きつつあった1950年代後半から1960年代前半においても難民の流入は止まらず、さらに、1960年代後半に中華人民共和国国内で始まった毛沢東らによるプロレタリア文化大革命の開始により、これを逃れる難民で人口流入は更に激しくなり、過度の居住人口により次第に無計画な増築によるスラムが出来上がっていった。

1960年代後半から1970年代にかけては鉄筋コンクリートRC造)のペンシルビルに建て変わったものの無計画な建設のために九龍城砦の街路は迷路と化し、「九龍城には一回入ると出てこられない」とも言われるようになった。また行政権が及ばなかったために売春薬物売買、賭博、その他違法行為が行われ、中国語で「無法」地帯を意味する「三不管」(サンブーグヮン)の地域と呼ばれるようになり、黒社会暴力団)である三合会の拠点となっていた[2]

そのため、イギリス領である香港領内での認可を受けておらず、中華民国および中華人民共和国内のみで通用する免許で開業した歯科医院や海賊版の出版物の出版、コピー商品の製造、麻薬の取り引きなどが半ば公然と行われていた。また衛生法上許可し難い環境下での中華料理点心製造などがあったが、最盛期には香港のホテル飲食店で使われた点心のかなりの割合を請け負っていたとの説もある[要出典]。城内警備においては1970年代後半から1990年代にかけて住民達が一丸となり自警団を組織し治安の改善を図った。

1984年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相と中華人民共和国の趙紫陽首相が行った英中共同声明調印により、香港が1997年7月1日に中華人民共和国に返還されることが決まり、1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、周囲のアパートや郊外のベッドタウンに政庁が建設した高層アパートへ住民を移住させる方針を発表したが、補償などの問題で住民はこれに異を唱えた。


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