九章律(きゅうしょうりつ)は、前漢建国時に蕭何が定めたとされる法典。ただし、南北朝時代に散逸したため、一部の逸文を除いてその内容を知ることが出来ない。律九章(りつきゅうしょう)・律経とも。全9篇(章)から構成されていたことが名前の由来とされる。
ただし、上記の定義に関しては問題が存在する(後述)。 『漢書』刑法志
概要
通説
前漢・後漢を通じて最も基本的な法典の一つとして扱われ、儒家における経書に相当するということで(これは儒教の国教化に伴って儒家が司法の場に関わるようになったことも含まれる)、律経とも称されて多くの注釈が行われたが、南北朝の混乱のうちに散逸したという。 ところが、蕭何が九章律を定めたとする話は、『漢書』以前の史料・文献には登場しない(『史記』の蕭相国世家(第23)には蕭何が漢の法律制度を整備したことは記述されているが、具体的な内容は無い)。しかも、『漢書』の著者班固とほぼ同時代に生きた王充が著した『論衡』謝短篇では全く反対に蕭何が律経(九章律)を編纂したことを否定する記事を載せている。王充はまず、九章が皋陶の作であるとする説を否定し、続いて蕭何の作であるとする説を否定している。王充が特に注目したのは、九章に肉刑に関する記述が無い点である。漢王朝で肉刑が廃止されたのは蕭何の死から26年後の文帝期に発生した太倉公の一件(紀元前167年)に伴う措置であり、蕭何が定めたものであれば肉刑に関する記述がある筈なのにそれがないと指摘している。更に前述の問答から、後漢の前期には既に九章律の作者については諸説があったことが判明する。そして、実際に張家山漢簡から発見された蕭何の死(紀元前193年)から7年後(紀元前186年[1])に作成された法令集とされる『二年律令』には、興・厩以外の7篇に相当する竹簡は発見されているもののその配列や構成[2]は九章律のものと伝わるものとは大きく異なり、罰則の中に各種の肉刑も明記されている。このため、少なくても蕭何が漢の法制を整備したのは事実であったとしても、それは九章律とは全く異なるものであり、九章律として知られていたものは文帝以後の前漢におけるある時期の法律を反映したものと考えられている。 近年では、陶安あんどや廣瀬薫雄
通説に対する批判
脚注[脚注の使い方]^ この年は少帝の在位および呂后執政の2年目にあたる。なお、『二年律令』を高祖2年(紀元前205年)・恵帝2年(紀元前193年、蕭何の没年でもある)成立説もあるが、蕭何の時代に作られたという事実は変わらない。
^ 王偉の分析によると、『九章律』の配列では盗・賊・囚・捕……の配列なのに対し、『二年律令』は賊・具・盗・囚……の配列になっている。また、田律・金布律・亡律などのように『九章律』に見られない篇も含まれている。
^ なお、廣瀬は『後漢書』章帝紀に記されている元和2年(85年)7月に章帝が出した詔に引用された「律」を経典化された九章律の一部と推定している。ちなみに元和2年当時、班固は54歳、王充は59歳でともに健在であった。
参考文献
滋賀秀三「九章律」(『アジア歴史事典 2』(平凡社、1984年))
孟慶遠 編/小島晋治 他訳『中国歴史文化事典』(新潮社、1998年) ISBN 978-4-10-730213-7
廣瀬薫雄『秦漢律令研究』(汲古書院、2010年) ISBN 978-4-7629-2587-0
第二章「『晋書』刑法志に見える法典編纂説話について」
第四章「秦漢時代の律の基本的特徴について」
第五章「九章律佚文考」
関連項目
法経