九津見房子
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くつみ ふさこ
九津見 房子
1922年頃
生誕1890年10月18日
岡山県岡山市弓之町(現・北区内)
死没 (1980-07-15) 1980年7月15日(89歳没)
東京都
国籍 日本
出身校岡山県立岡山高等女学校(中退)
肩書き社会運動家
配偶者高田集蔵
三田村四郎
子供大竹一燈子ほか
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九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1980年7月15日)は、日本の社会運動家、社会主義者。日本最初の社会主義女性団体「赤瀾会」の創設者の一人[1]。女性として初めて治安維持法により服役し、ゾルゲ事件にも連座して再度入獄した[2]
生涯
最初の上京まで

岡山市弓之町に生まれる[3]。九津見家は備前勝山藩・三浦家の血筋につながる藩家老の家柄で、父・又雄は婿養子(旧姓: 内藤)[3]。房子3歳の時に父が離縁されて、祖母のはる・母のうたとの3人の生活になる[3]。生計は岡山医学専門学校産婆看護婦養成所を出ていたうたが産婆として稼ぎ、仏教徒で二刀流剣術や柔術など武芸に長じた武士階級出身だったはるとともに房子を育てた[3]。やがてカトリック教会の付属幼稚園に入るが、房子が赤痢で重篤になった際に「天国に行けるよう」受洗を薦めるフランス人修道女(房子は「ははさま」と慕っていた)を、はるが「自分は極楽に行くつもりだからそうはさせぬ」と拒絶して、幼稚園も移ることになった[4]。だが、幼少期に接したキリスト教の影響は大きく、房子は後年「思想をつちかった土壌」を問われて「まず第一にクリスト教ですね」と返答している[4]

岡山師範学校付属小学校から県立岡山高等女学校に進む[5]。女学校在籍中に、自宅に同居した医学生から堺利彦が翻訳したエドワード・ベラミーの『百年後の新社会』[注 1]などを借りて読み、社会主義思想に親しむようになる[5]。この医学生が岡山にあった被差別部落を支援救済する活動にも同行した[5]。また、自宅から至近距離に生家のあった福田英子にも強い関心を抱いた[5]

16歳の1906年(明治39年)11月に岡山の社会主義者グループ「いろは倶楽部」主催による座間止水の講演を聞き、同郷の山川均を知る[6]。房子は山川が勤務する薬問屋・林源十郎商店の支店などに下級生2人と足しげく通って話を聞き、山川から「今こそわれわれは力を中央に集中して働かねばならない」と言われたことを契機に上京を決意する[7]。また、母が第六高等学校の学生との養子縁組の話を進めようとしていたが、相手が社会主義を嫌っておりこれに同意できなかったことも一因となった[8]。房子は福田英子を頼ることとし、女学校の一級上だった霜山楳乃(霜山精一の妹)に紹介状を書いてもらった[8]。12月中旬、登校するふりをして単身岡山を出発し、大阪駅で山川と合流する形で上京する[8]
帰郷と最初の結婚

東京では角筈(現・新宿区)にあった福田英子の自宅に住み込みを許される[9]。『世界婦人』[10]発行の原稿取りや校正、福田家の家事手伝いをしながら石川三四郎荒畑寒村管野スガら社会主義者の人柄に接する[9]。翌1907年1月に郷里の女学校の教師が上京して帰郷を説得したが応じず、3月25日に父が死去すると葬儀出席のため4ヶ月ぶりに実家に戻った[11]。以後、房子は福田と会うことはなく、接触を図った形跡もない[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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