九条幸家
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 凡例九条 幸家
時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕天正14年2月19日1586年4月7日
死没寛文5年8月21日1665年9月29日
改名忠栄(初名)→幸家
別名句、?
官位従一位関白左大臣
主君後陽成天皇後水尾天皇明正天皇
後光明天皇後西天皇霊元天皇
氏族藤原北家九条流九条家
父母父:九条兼孝、母:高倉熙子(高倉永家の娘)
兄弟幸家、増孝、八条宮智仁親王
豊臣秀勝の娘完子
二条康道道房松殿道基、栄厳
成等院(宣如室)、貞梁院(良如室)
日怡(瑞円院、瑞龍寺二世)
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九条 幸家(くじょう ゆきいえ)は、江戸時代初期の公家公卿)・藤氏長者藤原氏摂関家九条流九条家当主関白左大臣に昇った。初名は忠栄(ただひで)。また一字名として「句」「?」とも。

妻の豊臣完子を通じて徳川将軍家と姻戚関係にあったことから江戸幕府から朝廷への交渉役に選ばれ、朝廷と幕府の仲介に尽力、関白を2度務め両者が衝突する度に関係修復に奔走した。京狩野の重要なパトロンでもあり、3代の画家たち(狩野山楽山雪永納)を庇護し彼等の危機を救うなど京狩野に欠かせない支援者だった。
生涯
幼少期から結婚まで

天正14年(1586年)、九条兼孝の子として生まれる。母は権大納言高倉永家の娘熙子。

天正18年(1590年2月21日、5歳で元服とともに正五位下左近衛少将に叙任され、以後も昇進を続ける。忠栄は利発で、同年1月に雪が降った際「雪ふれば鳥がすくみて枝にある」と読んだ(『多聞院日記』)。養祖父の九条稙通はこの養孫に期待をしたらしく、源氏物語伝授を養子の兼孝ではなく忠栄に伝授しようとした。しかし、稙通と忠栄の歳は79も離れていたため、賀茂社の賀茂尚久に「返し伝授」を託した。尚久は稙通の願いを叶えて元和5年(1619年3月10日、忠栄が34歳の時に源氏三ヶ秘決を伝授している。更に、この秘決は寛永12年(1635年1月11日に次男で後継者の九条道房に受け継がれた[1][2][3]

天正19年(1591年1月5日従四位下左近衛中将、文禄2年(1593年11月11日に従四位上、慶長4年(1599年12月25日従三位権中納言に任じられ官位は順調に上がった。しかし一方で、従三位になる前の慶長3年(1598年)に豊臣秀吉薨去後陽成天皇が弟の八条宮智仁親王(忠栄の姉の夫)への譲位を希望して父や2人の叔父二条昭実鷹司信房一条内基ら摂家当主たちに反対され撤回するなど、世情は不安定になっていた。そうした中で弟の増孝が叔父(昭実の弟・信房の兄)の三宝院門跡義演に選ばれて随心院に入室、三宝院には元和4年(1618年)に信房の子で従弟の覚定が入ったが、後に増孝と覚定は対立することになる[1][2][4]

慶長6年(1601年1月6日正三位、翌慶長7年(1602年)1月6日に従二位、慶長9年(1604年8月1日には正二位権大納言になった。同年6月3日に秀吉の大姪(秀吉の甥豊臣秀勝の娘)・完子と結婚。この高度に政治的な婚姻を仕立てたのは完子の伯母で秀吉の未亡人淀殿であり、息子の豊臣秀頼の関白就任の布石を打つ狙いがあった。かたや九条家も豊臣氏徳川氏徳川将軍家)と繋がる完子との縁でお家安泰を図れるという利点があり(完子の母江は父亡き後に徳川家康の息子徳川秀忠と再々婚)、徳川氏も豊臣氏との融和関係や摂家を含む朝廷との関係を強化することが期待出来た。忠栄と完子の結婚は豪華さが注目され、淀殿が姪の嫁入り支度に金を惜しまず、九条家へ屋敷を新築(九条家新御殿)したことが公家たちの話題に上り複数の日記(舟橋秀賢の『慶長日件録』・西洞院時慶の『時慶卿記』・山科言経の『言経卿記』)に記録されている。結婚が注目された一方で不幸な出来事も起こり、完子の乳母が祝言の夜に自殺、5ヶ月後の11月8日には忠栄の姉の智仁親王妃が死去、父は悲しみのあまり関白を辞任して出家隠居する事態にまでなった。これにより忠栄が九条家を背負うことになった[1][2][5][6]
最初の関白就任

慶長11年(1606年9月22日左近衛大将、翌慶長12年(1607年1月11日右大臣と官位を進め、慶長13年(1608年1月7日に左近衛大将を辞任するも同年12月26日に関白・藤氏長者になった。またこの時期に息子が2人誕生、右大臣就任から13日後の慶長12年1月24日に長男松鶴、慶長14年(1609年8月13日に次男が誕生、松鶴は叔父の二条昭実に子がいないため慶長16年(1611年12月26日に昭実の養子として二条家を相続(二条康道)、2週間後の21日に元服した次男は忠象と名乗り(寛永8年(1631年11月2日に九条道房に改名)、九条家を相続することが決められた。以後も息子が2人誕生、慶長20年(1615年2月17日に生まれた三男千世鶴は寛永11年(1634年7月8日に元服して道基に改名(寛永20年(1643年)に道昭に改名)、29日に再興された松殿家を継いだ(松殿道基)。元和8年(1622年2月22日に生まれた四男栄厳は叔父に当たる増孝の後を継いで随心院門跡となった[注釈 1][1][2][8]


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