九条兼実
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2021年7月)

 凡例九条 兼実
九条兼実像『天子摂関御影』より
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕久安5年(1149年
死没建永2年4月5日1207年5月3日
改名兼実→円証(法名)
別名月輪殿、後法性寺殿
墓所京都市東福寺
官位従一位摂政関白太政大臣
主君後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族藤原北家御堂流九条家
父母父:藤原忠通、母:加賀局(藤原仲光の娘)
兄弟恵信、覚忠、聖子近衛基実
松殿基房育子、兼実、尊忠、道円、信円兼房慈円、最忠など
養兄弟:呈子
妻藤原兼子(藤原季行の娘)
藤原顕輔または藤原頼輔の娘、
八条院三位局(高階盛章の娘)
良通良経任子良円良平良快良輔、良尋、良海、良恵、玉日
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九条兼実(菊池容斎画)

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家関白藤原忠通の六男。官位従一位摂政関白太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。

摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。

兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。
生涯
有職の公卿

久安5年(1149年)、摂政・藤原忠通の六男として生まれる。母の身分は低かったが、異母姉である皇嘉門院猶子となり(『兵範記保元元年正月4日条)、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列した[注釈 1]

保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていた。皇嘉門院の庇護を受けて兼実も学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げる。長寛2年(1164年)に16歳で内大臣仁安元年(1166年)に18歳で右大臣に進んだ。兼実は若年ながら公事・作法について高い見識を有し、特に左大臣大炊御門経宗の作法については違例が多いと厳しく批判している。しかし、兼実の官職はこの時から20年間動くことはなく、永らく右大臣に留まった。これは欠員が出ず昇進が頭打ちになったこともあるが、所労・病悩を訴えて朝廷への出仕が滞りがちだったことも要因の一つとして考えられる[注釈 2]
治承・寿永の乱

治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、これは兼実に思わぬ僥倖をもたらした。新たに関白となった近衛基通は公事に未練であったため、平氏は兼実にその補佐役としての役割を期待して、兼実の嫡男・良通を権中納言・右大将とする優遇策に出た。兼実は平氏から恩顧を与えられることを「生涯の恥辱」と憤慨しながらも、任官自体は九条家の家格上昇に繋がるため受諾した。公事の遂行について助言を求める基通に対しても、「故殿(基実)の深恩を思う」としてその手ほどきをしている[注釈 3]

治承4年(1180年)の以仁王の挙兵を機に全国各地は動乱状態となり、治承5年(1181年)には清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転するが、兼実は特定の勢力に属さず内乱期を通して傍観者的態度を取った。この時期の兼実は右大臣の要職にありながら朝廷にほとんど出仕せず、後白河院からの諮問には明確な返答を避け[注釈 4]、摂政の基通に対しても煩わしさからか公事・作法を教示することはなくなっている。兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、後白河院や平氏に正面切って対峙するようなことは決してしなかったが、貴族社会崩壊の危機に直面して苦慮している後白河院にとっては信を置きにくい存在であり、両者の関係は敵対とは行かないまでも徐々に冷却化していった。

翌治承4年(1180年)、兼実は熊野に向かう自らの護持僧・智詮に自ら書写した『般若心経』と『法華経』を託し、現状の混乱した政治を憂い、自らが権力の中枢に立った暁には「政を淳素に反(かえ)す」(『玉葉』治承4年3月20日条)、すなわち政治の刷新を図って昔のような安定した社会を回復させる決意を示した。兼実は家司でもあった清原頼業に『貞観政要』の加点を求めるなど、中国の政治書の学習に没頭する。ところが、その最中の同年の暮には平重衡による南都焼討によって東大寺興福寺が炎上し、兼実は悲嘆することになる(『玉葉』治承4年12月28日条)。興福寺が藤原氏の氏寺であったという側面もあるものの、同年5月27日の朝議において「謀叛の証拠がない」ことを理由に興福寺への攻撃に反対(『愚管抄』巻第5)し、その後の再建に対する後白河法皇からの諮問でも再建の重要性を訴える一方で、戦乱や飢饉が解決しない中での造営は民を苦しめるだけである(『玉葉』治承5年7月13・15日条)とも説き、神仏への祈祷と徳化(=徳政)の両立と調和を訴えた。この祈祷と徳政の両立と調和によって「政を淳素に反す」という兼実の信念は以後一貫されることになる[6]

政治の中枢から一定の距離を置く兼実が頼みとしたのは、異母姉の皇嘉門院だった。皇嘉門院は兼実の幼少の頃から親密な関係にあり邸宅も接していた。養和元年(1181年)12月に皇嘉門院が崩御すると、兼実は日記に繰り返し哀惜の情を綴っている。皇嘉門院の所領の大部分は兼実の嫡子・良通に譲られており、九条家の主要な経済基盤となった。唯一と言ってよい拠り所を失った兼実は、莫大な財力を持つ八条院への接近を図り、八条院無双の寵臣である三位局(高階盛章の女)を室として良輔を産ませ、実子のいない八条院への養子の送り込みに成功している。


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