九州電気軌道
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九州電気軌道株式会社
九軌電車・バスを写した絵葉書(1935年頃)
種類株式会社
略称九軌
本社所在地 日本
福岡県小倉市砂津360番地
設立1908年(明治41年)12月11日
業種鉄道
事業内容軌道事業電気供給事業
歴代社長松方幸次郎(1908 - 1930年)
松本枩蔵(1930年)
大田黒重五郎(1930 - 1935年)
村上巧児(1935 - 1942年)
公称資本金3000万円
払込資本金同上
株式数60万株(額面50円払込済)
総資産6243万9千円
収入378万5千円
支出270万0千円
純利益108万5千円
配当率年率7.0%
株主数3574人
主要株主九州合同バス (8.4%)、本小曽根合資 (4.3%)、野村生命 (1.3%)、麻生鉱業 (1.2%)
決算期5月末・11月末(年2回)
特記事項:
資本金以下は1941年11月期決算による[1]
1942年(昭和17年)9月1日付で鉄道事業者4社を合併し西日本鉄道へ社名変更
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九州電気軌道株式会社(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:九州電氣軌道󠄁株式會社󠄁、きゅうしゅうでんききどうかぶしきがいしゃ)は、明治末期から昭和戦前期にかけて、現在の福岡県北九州市域において軌道事業(路面電車)を営んでいた鉄道事業者である。略称は「九軌」(きゅうき)。法人としての西日本鉄道(西鉄)の前身であり、西鉄とは同一企業にあたる。

1908年(明治41年)設立。1911年(明治44年)に軌道事業を開業し、以後順次路線を延伸した。1940年代に入ると福岡県下の鉄道事業統合の中心となり、1942年(昭和17年)、県下の鉄道事業者4社を合併、西鉄となった。九州電気軌道が建設した路線は西鉄北九州線となったが、ごく一部の区間を残して廃止されており西鉄の路線としては現存しない。

軌道事業以外にも、軌道の沿線地域を中心に電気供給事業を営んだ。軌道事業よりも収入の多い主力事業であったが、1940年(昭和15年)に事業譲渡によって撤退した。従って九州電力送配電の管内にかつて存在した電力事業者でもある。
概要九州電気軌道の広告(1939年)

福岡県を中心に鉄道事業バス事業を営む西日本鉄道株式会社(西鉄)は、1942年(昭和17年)9月1日、九州電気軌道株式会社(九軌)が九州鉄道福博電車博多湾鉄道汽船筑前参宮鉄道の4社を合併し、商号を変更したことで成立した企業である[2]。本項では、九州電気軌道と称していた時期の西鉄について扱う。

九州電気軌道は1908年(明治41年)12月、現在の北九州市域に軌道線(路面電車)を敷設する目的で設立された。軌道事業の開業は1911年(明治44年)。以後1929年(昭和4年)にかけて約40キロメートルの路線を建設した。これらの路線は西鉄発足後「西鉄北九州線」とされたが、1980年代より順次廃止が進み、筑豊電気鉄道線(1956年開業)に編入された一部区間を除いて2000年(平成12年)11月に全廃されており、西鉄の路線としては現存しない。

軌道事業以外の付帯事業で最も規模が大きいものが電気供給事業である。軌道事業よりも早い1909年(明治42年)に開業し、軌道沿線への電灯・電力供給を展開、北九州工業地帯への電力供給の一翼を担った。1930年代後半には総収入の7割近くをこの電気供給事業が占めており、主力事業であったが、1939年(昭和14年)に火力発電所を国策会社日本発送電へ出資し、翌1940年(昭和15年)には残る配電部門を当時の九州の大手電力会社九州水力電気へと事業を譲渡して電気供給事業から撤退した。このため同事業は西鉄に引き継がれていない。発電所や供給区域はその後九州電力へ渡った。

付帯事業はその他に、バス事業、土地事業、さらに1910年代後半からの一時期のみ電気化学事業があった。バス事業・土地事業は出資する関係会社による運営としていた時期もあるが、バス事業は直営となった後に西鉄へ引き継がれた(西鉄バス)。また関係会社にはバス会社・土地会社のほか百貨店事業を営む井筒屋百貨店(現・井筒屋)などがあった。
沿革
設立の経緯九州電気軌道初代社長松方幸次郎

九州の北部に位置する北九州市は、1963年(昭和38年)に門司市小倉市戸畑市八幡市若松市の5市が合併し成立した市である。小倉市は小倉藩城下町に由来するが、他の都市は八幡製鉄所(八幡市にて1904年本格操業開始)をはじめとする工場の進出による工業都市として、あるいは工場や筑豊地方炭鉱を背景とする港湾都市として明治以降に発展した地域にあたる[3]。この5市のうち洞海湾の西に位置する若松市を除いた4市を結んでいた電気鉄道がかつての西鉄北九州線であり、その大部分を建設した会社が九州電気軌道である。

九州電気軌道の軌道敷設計画は、1905年(明治38年)に門司から小倉に至る区間の軌道敷設特許を出願した「門司電気鉄道」と、翌1906年(明治39年)に小倉から八幡を経て黒崎に至る区間および小倉から戸畑を経て八幡に至る区間の軌道敷設特許を出願した「八幡馬車鉄道」(11月「八幡電気鉄道」に変更)を起源とする[4]。門司電気鉄道の発起人は川崎造船所社長で神戸川崎財閥を率いる松方幸次郎や、播磨造船所社長小曽根喜一郎神戸の財界人が中心[4]。一方八幡電気鉄道の発起人はすべて福岡県内の人物で、銀行家の富安保太郎、呉服商の渡辺与八郎、炭鉱経営の伊藤伝右衛門らが名を連ねた[4]

1907年(明治40年)5月1日、門司電気鉄道発起人に対し門司市 - 小倉市間の、八幡電気鉄道発起人に対し小倉市 - 遠賀郡黒崎町間および小倉市 - 遠賀郡八幡町間の軌道敷設特許がそれぞれ下付された[4]。その後この2つの計画は計画区間が隣接することから合同することで話がまとまり、1907年9月に門司電気鉄道発起人が八幡電気鉄道発起人に特許を譲渡、両グループの発起人は「九州電気軌道」発起人として一体化された[4]。しかし当時は日露戦争後の反動不況の最中であり、株式の払込金徴収は不振で資金調達は難航した[4]。当初計画では資本金を200万円に設定していたが、1908年(明治41年)6月の発起人会で100万円への減額を決定、さしあたり計画の一部、門司 - 黒崎間の建設を取り決めた[4]。会社設立期限の1908年12月末の直前になってようやく目標としていた25万円の払込金徴収が完了し、1908年12月11日、九州電気軌道株式会社の創立総会開催となり、17日に設立登記を完了した[4]

社長には神戸側から松方幸次郎が就任、松方の代理人久保正助が専務取締役となった[4]。本社は小倉市内に構えた[5]
軌道事業の開業海峡ドラマシップに展示されている開業時の車両のレプリカ


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