九州平定
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この項目では、豊臣秀吉による九州平定について説明しています。

日本史上で「九州平定」と称される諸事象全般については「九州平定 (日本史)」をご覧ください。

秀吉の九州平定にともなう知行割りについては「九州国分」をご覧ください。

九州平定
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:天正14年(1586年)-同15年(1587年)
場所:九州全域
結果:島津氏の降伏、豊臣秀吉の九州平定成功
交戦勢力
九州平定軍島津軍
指導者・指揮官
豊臣秀吉
豊臣秀長
黒田孝高
大友義統
志賀親次
立花宗茂島津義久
島津義弘
島津家久
島津歳久
島津忠長
戦力
20万-27万2万-5万
損害
3000-50008000以上
豊臣秀吉の戦闘


中国役

三木

備中高松城

山崎

賤ヶ岳

北ノ庄

小牧・長久手

紀州役

四国役

富山

飛騨

九州役

戸次川

根白坂

肥後国人一揆

小田原陣

葛西・大崎一揆

和賀・稗貫一揆

九戸の乱

梅北一揆

文禄・慶長の役

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九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉1586年9月9日豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」[注釈 1]、「九州攻め」、「島津攻め」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。
呼称と開始時期について黒田孝高

この九州平定については呼称が複数見られ、豊臣政権による九州侵攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。なお、九州地方の各市町村の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)九州平定」の用語が比較的多く用いられるのに対し、1983年昭和58年)刊行の吉川弘文館国史大辞典』では「九州征伐」(今井林太郎)が使用されている[注釈 2]

大日本帝国陸軍参謀本部が編集した「日本戦史」においては、殆どの戦争に「役」の語を当てており、本項も「九州役」としている。「役」は、賦役などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、戦争のために人民を徴発し、人びとが軍事的に徴用されるところから「戦」の意で「役」の呼称が生まれたものである[1]

開始時期について、小和田哲男は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている[2]。そして、前年(1586年)段階における秀吉側の立役者は黒田孝高であったとしている(後述)[2]
背景「九州平定 (日本史)#島津氏の九州平定事業」も参照秀吉に助けを求めた
大友宗麟

戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある[3]。そのなかから、薩摩の島津氏が日向伊東氏肥後相良氏阿蘇氏肥前有馬氏龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた[4]豊後大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国北陸山陽山陰四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。

これを受け、関白となった秀吉は、天正13年(1585年)10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた[5]。この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している[6]

さらに島津義久は天正14年(1586年)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した[5]。3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否[7]、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った[注釈 3]

島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった[7][注釈 4]。天正14年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している[8]

秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元吉川元春小早川隆景や、宮部継潤などの中国の大名、あるいは長宗我部元親十河存保などの四国の大名を用いようとした[2]。秀吉が天正14年4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている[9]
経緯
天正14年の戦い(豊薩合戦)「豊薩合戦」および「島津義久#九州統一への戦い」も参照

天正13年(1585年)2月、毛利輝元の庇護を受けて備後国の鞆(鞆幕府)に滞在していた征夷大将軍足利義昭は島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じており、義久はこれに応じている(当時は毛利と敵対していた大友を島津に牽制させるため)[10]。島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏の所領であった豊前豊後筑前への侵攻を開始した。島津氏の軍事行動について、日本史学者池上裕子は「島津は自力で九州の殆どを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであるとしている[11]。天正14年(1586年)3月、秀吉は島津氏の使者鎌田政近に対し、島津氏が占領した領地の殆どを大友氏に返還する国分案を提示した一方、4月には毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭兵糧などの準備を指示した。また、仙石秀久と長宗我部元親らを豊後に派遣して大友氏に加勢させ、8月には大友宗麟・義統の父子と立花宗茂に書状を送り、黒田孝高・宮木豊盛らの豊前出陣を伝えた[12]
筑前の戦い「岩屋城の戦い」および「立花山城の戦い」も参照高橋紹運の墓(右)と岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑(左奥)

秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は1586年(天正14年)6月、筑前への侵攻を開始した。6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代に到着した[3]。そして、島津忠長伊集院忠棟が先陣を勤め、これに島津忠隣新納忠元北郷忠虎川上忠堅らが続く形で、大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。7月6日筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した[3]

秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として先ず黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。


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