九州工業大学
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九州工業大学

九州工業大学正門(辰野金吾の設計)
大学設置1949年
創立1909年
学校種別国立
設置者国立大学法人九州工業大学
本部所在地福岡県北九州市戸畑区仙水町1-1
キャンパス戸畑キャンパス(北九州市戸畑区)
飯塚キャンパス(福岡県飯塚市
若松キャンパス(北九州市若松区
学部工学部(戸畑キャンパス)
情報工学部(飯塚キャンパス)
研究科工学府
情報工学府
生命体工学研究科
ウェブサイトwww.kyutech.ac.jp
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九州工業大学(きゅうしゅうこうぎょうだいがく、英語: Kyushu Institute of Technology)は、福岡県北九州市戸畑区仙水町1-1に本部を置く日本国立大学1909年創立、1949年大学設置。大学の略称は九工大(きゅうこうだい)。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 九州工業大学戸畑飯塚若松 各キャンパスの位置

英字ではKITと略してきたが、現在ではインターネットドメイン名に使用しているKyutechが多く用いられる。
概要

東京帝国大学(現在の東京大学)の総長を務めた山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎によって、1909年(明治42年)に卒業生に工学士の称号を授ける工学の最高学府たる4年制の明治専門学校(私立旧制工業専門学校)として開校(安川敬一郎は明治専門学校以外に安川電機明治鉱業、黒崎窯業(現・黒崎播磨)、明治専門学校附属小学校(現・明治学園)等を設立した[1][2])。 ⇒初代総裁として招聘された山川健次郎の裁量によって、建物の設計は当代一流の建築家・辰野金吾博士に依頼され、校長は当時わが国工業界最高の指導者であった的場中博士が迎えられ、教授陣を東京帝国大学卒業生(専門科目)東京外国語学校卒業生(英語)陸軍士官学校卒業生(体育)から採用し、基礎と実験が、また科目としては英語と体育も重視された。

1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)5月31日に国立九州工業大学として設置された[3]。国立大学の中では唯一の情報工学部を持ち[注 1]、また大学院生命体工学研究科北九州学術研究都市に進出していて[4]安川電機早稲田大学北九州市立大学九州歯科大学産業医科大学、英国クランフィールド大学、理化学研究所脳科学総合研究センターなどと連携している[5][6][7][8]。九州最大の工業地帯である北九州工業地帯に位置する国立工業大学であり、わが国の産業発展と人材育成に努めている。

小惑星イトカワに到達した小惑星探査機はやぶさ (MUSES-C) の試験を行ったことでも有名[9]。卒業生の就職率が良く、企業からは非常に高い評価を得ており[10]、その実力は各界で高く評価されている。

明治専門学校には、政治家では尾崎行雄犬養毅大隈重信原敬を始めとする首相閣僚級の人々、学者では長岡半太郎手島精一実業家では益田孝渋沢栄一團琢磨藤山雷太他の重鎮等、多くの著名人が来校している[11]

明治専門学校の卒業生である藤田哲也博士は、気象学ノーベル賞と呼ばれる「フランス航空宇宙アカデミー金メダル」を受賞しており、気象学研究者として世界的な評価を受けていた[12][13][14][15]明治専門学校旧本館のR50分の1模型(辰野金吾の設計、九州工業大学資料館にて)
建学の理念

初代総裁である山川健次郎が示した『技術に堪能(かんのう)なる士君子』という理念がある。ただの技術者を育てるのではなく、技術に精通した士君子(gentleman)を育てもって日本を支える人材を育成しようとされた山川健次郎安川敬一郎両人の教育に対する思いが込められている。

学校の創立構想では、理学学校として出発し失敗した東京専門学校早稲田大学の前身)の大隈重信の忠告もあり、文系学部も順次創部し、将来的に総合大学にするという構想から、校名に「工業」の言葉を入れなかった。

設立当時、理工系では東京、京都両帝国大学にしか与えられていなかった「工学士」の称号を卒業生に授与できた私学は同年開講した早稲田理工科と明治専門学校の2校だけであった。明治専門学校は私学の雄として「西の明専、東の早稲田」と呼ばれるようになり、官立に移管後も卒業生に工学士の称号を授ける伝統ある4年制の専門学校としてその名を全国に轟かせた。

2013年3月には、明治専門学校の卒業生である中村孝博士より「母校創立の精神と、明専?九州工大と連なる輝かしい伝統に想いを馳せ、100年の歩みを伝えるような記念館を、創っていただくようお願いいたします」との書信とともに九州工業大学創立100周年記念の記念館の建設費として5億円に上る巨額な寄付を頂き建設された「百周年中村記念館 ⇒が開館した。

現在ではさらに、教育・研究の高度化を行い、「知と文化の情報発信拠点」として、また、教育・研究機関として次世代産業の創出・育成に貢献し、個性豊かな工学系総合大学を目指して、生命原理の学際的工学などの学術的な新たな試みが多くされている。
沿革
略歴

北九州の炭鉱事業の隆盛と1901年(明治34年)の官営八幡製鐵所の開設を契機として、わが国の重化学工業の勃興期に工業化推進の中核的人材を養成する目的をもって、製鉄を中心とする北九州工業地帯に、1907年(明治40年)に日本で初めての4年制の工業専門学校「私立明治専門学校」として設立された。


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