九六式十五糎榴弾砲
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制式名称九六式十五糎榴弾砲
全備重量4,140kg
砲身重量1388kg(閉鎖機共)[1]
口径149.1mm
砲身長3,523mm(23.6口径)
初速540m/s
最大射程11,900m
高低射界-5°?+65°
水平射界左右15°
使用弾種九二式榴弾
九五式破甲榴弾

使用勢力 大日本帝国陸軍
総生産数500門以上[2]

九六式十五糎榴弾砲(きゅうろくしきじゅうごせんちりゅうだんほう)は、1930年代中期に開発・採用された大日本帝国陸軍榴弾砲

日中戦争ノモンハン事件第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)における帝国陸軍の主力重榴弾砲(野戦重砲)として、主に司令部直轄(「軍砲兵」)[3]の「野戦重砲兵(軍隊符号:SA)」が運用した。
開発経緯北満冬季試験時の本砲

本砲(九六式十五糎榴弾砲)の開発は1920年(大正9年)7月20日付の「参第398号」研究方針を基にする、1926年(大正15年)2月25日付の「陸普第644号」改定によって設定された新榴弾砲の仕様による。この仕様は第一次世界大戦の欧州戦場での戦訓に基づき、シベリア出兵に伴う戦訓を加味した改定が加わったものである。主な要求として以下の点が挙げられた。

最大射程 約12,000m

高低射界 -5°ないし+65°

方向射界 約30°

運動性は4馬繋駕を以ってする単一砲車とし、自動車牽引も行い得る如くす。

既存の四年式十五糎榴弾砲に対して飛躍的な近代火砲の要望であり、単なる延命策でしかない改造四年式十五糎榴弾砲の計画とは、時系列的にも目指す機能性能の面でも直接の関連は全くない。しかしながら、大正期宇垣軍縮の影響等で本砲の試作着手は大幅に遅れ、ようやく1934年(昭和9年)1月から設計に着手した。この間の状況の変化により、繋駕による輓曳牽引を中止し、自動車(牽引車)牽引のみによるものと改められた(のちの実戦では6tクラスの九八式六屯牽引車 ロケが使用された)。翌1935年(昭和10年)9月に試製砲を完成、性能試験と不具合箇所の修正を繰り返し行った。そして3年目の1937年(昭和12年)に九六式十五糎榴弾砲として仮制式制定された。

自己緊縮砲身の採用やリーフスプリングを用いたサスペンションシステムなど、四年式十五糎榴弾砲と比べ進歩した技術が多く使われており、迅速な放列布置が可能であるなど性能のみならず運用性や、砲自体の操作性も改善されている。一方、車輪は従来通りソリッド・ゴム装着の木製(ごく一部で空気入りゴムタイヤ)で巡航速度は24km/hと、本砲と同世代の英米・ソ連の新式榴弾砲と比較して機動性に劣る。
実戦投入1940年(昭和15年)満州、九八式六屯牽引車 ロケによって牽引される九六式十五糎榴弾砲と前車野戦重砲兵第7連隊

制式採用上申の直前に盧溝橋事件が勃発し、完成していた九六式十五糎榴弾砲8門すべてを実戦試験を兼ねて北支支那駐屯砲兵連隊[注 1]に急送した。本砲を装備した第2大隊は1937年(昭和12年)10月の国民革命軍の正定城攻撃に際し、攻城砲として攻撃短延期信管と瞬発信管を混用して城壁を破壊し突撃路を開くなど大成果を収めた。期待通りの成績を上げた本砲は砲兵部隊の絶賛を博し、1938年(昭和13年)5月に制式制定、陸軍造兵廠大阪工廠において量産体制に入った。
日中戦争

日中戦争開戦以降、1938年9月の武漢作戦最大の激戦となった揚子江南岸の馬頭鎮の戦闘で、本砲を装備した山砲兵第27連隊(27BA)[注 2]が友軍戦車部隊に損害を与えた中国軍の対戦車砲部隊を制圧するなど(しかし、より射程の長い中国軍のラインメタル十五榴の射程外からの砲撃で1門が破壊されている)、武漢三鎮の攻略に寄与した。1939年(昭和14年)のノモンハン事件では野戦重砲兵第1連隊(1SA)が本砲を装備して参戦した。

ノモンハンでの重砲隊は、ゲオルギー・ジューコフによる大攻勢の際に、日本軍が包囲されたことから最前線で戦うこととなってしまい[4]、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍歩兵や戦車隊と直接戦うこととなった。本砲は当時のBT-7BT-5といった装甲が薄いソ連軍戦車に対しては過分な威力を発揮し、水平砲撃が戦車に命中すると砲塔が吹き飛んだという[5]。野戦重砲第1連隊第2中隊長山崎昌来中尉は、敵の攻撃で負傷し顔面を血に染めながらも、部下を鼓舞し本砲の零分角射撃でソ連軍戦車の攻撃を何度も撃退。砲弾を撃ち尽くすと、砲の照準器を破壊しソ連軍戦車に最後の突撃をしようとしたところで、重砲の死角となる200 mまで近づいたソ連軍歩兵の狙撃を頭部に受け戦死した。その活躍により、山崎はノモンハン事件で個人として唯一関東軍から感状を授与されている[4][6]。ノモンハンで本砲は16門投入されたが、11門を失いうち5門はソ連軍からの接収を防ぐべく日本軍自らが破壊したものであった[7]

その後1940年(昭和15年)頃にはドイツ陸軍(とアメリカ陸軍)の方針に追随して、「師団砲兵[注 3]」たる野砲兵連隊野砲改造三八式野砲九〇式野砲など)を軽榴弾砲(九一式十糎榴弾砲)に、軽榴弾砲(十榴)を重榴弾砲(十五榴)に置き換え、師団砲兵も大火力の十五榴を配備することと決定され、それに本砲を宛てることになったが、国力などその後の状勢からこれを実現することはできなかった。代わりに、旧式十五榴である四年式十五糎榴弾砲は二車編成で輓曳牽引可能なこともあり、余剰品が一部の野砲兵連隊に配備されている。なお、本砲はアメリカ陸軍のM1 155mm榴弾砲やドイツ陸軍の15cm sFH 18など、同世代同クラスの重榴弾砲と比べて若干軽量ではあり、最大射程は若干短い。
太平洋戦争九六式十五糎榴弾砲(防盾欠。遊就館)

太平洋戦争では、南方作戦におけるフィリピン作戦第二次バターン半島コレヒドール島砲撃戦に本砲24門を擁する野戦重砲兵第1連隊が投入され、集成重砲兵部隊たる第14軍第1砲兵隊(本砲を主力に、九六式二十四糎榴弾砲四五式二十四糎榴弾砲九六式十五糎加農八九式十五糎加農九二式十糎加農九八式臼砲などを装備)隷下として従軍した。1942年(昭和17年)4月14日よりバターン半島南端の砲列から海を挟んで約10,000m先のコレヒドール島アメリカ極東陸軍要塞フライレ島などに対し連日砲撃を実施し、対するアメリカ軍の30cmクラス大口径要塞砲海岸砲)との間で砲撃戦が行われたが、同月19日に24cm砲弾のコレヒドール要塞弾薬庫への命中、36cm砲の撃破などによりこの砲撃戦に勝利、フィリピン作戦の勝利に寄与した。

以降、本砲はガダルカナル島の戦いなど各戦線で加農(カノン砲)たる九二式十糎加農とともに野戦重砲兵連隊の主力火砲として使用され、巧みに隠蔽された砲陣地と不規則的な攻撃により散発的な戦果をあげ、海兵隊に「ピストルピート」のあだ名をつけられた[注 4]


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