九五式軽戦車
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九五式軽戦車 ハ号モスクワ、大祖国戦争中央博物館の車輌
性能諸元
全長4.30 m
車体長4.30 m
全幅2.07 m
全高2.28 m
重量自重6.7t[1] 全備重量7.4t
懸架方式シーソー式連動懸架
速度40 km/h (最大)
31.7 km/h (定格)
行動距離240 km
主砲九四式三十七粍戦車砲
ないし
九八式三十七粍戦車砲
(120発)
副武装九一式車載軽機関銃×2
ないし
九七式車載重機関銃×2
(車体前部・砲塔後部 3,000発)
装甲
砲塔


外周12mm

上面9mm

ハッチ6mm

車体


前面上・下部12mm

前面傾斜部9mm

後面10mm

上面前部9mm

上面後部6mm

底面9mm

エンジン三菱A六一二〇VDe
空冷直列6気筒ディーゼル
120 hp (最大)
110 hp (定格) 
排気量14,300cc
乗員3名(車長、操縦手、機関銃手)
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九五式軽戦車(きゅうごしきけいせんしゃ)は、1930年代中期に大日本帝国で開発・採用された戦車軽戦車)。秘匿名称「ハ号」※「九十五式軽戦車」、「ハゴ」、「ハゴ車」は誤り。正しくは「はごう」。(「イ号」は八九式中戦車、「ロ号」は九五式重戦車[2])。

日本戦車としては最多の2,378輛が生産され、九七式中戦車 チハ(チハ車)とともに第二次世界大戦で活躍し、日本軍の代表的な軽戦車として知られている。
背景
八九式から九五式への経緯

1920年代後半に開発・採用された、日本初の国産量産戦車である八九式軽戦車(後の八九式中戦車)は、本来日本陸軍が英国からの購入を求めたヴィッカース中戦車 Mk.I(11.7t)や、その代わりの参考用に輸入したビッカースC型中戦車(11.5t)のように、1920年代当時の世界水準に合わせて10t程度の戦車として開発された。改修を重ねたため、最終的に車重11.8tとなったため、昭和9年頃に改称して八九式中戦車となり、昭和10年にディーゼルエンジンを搭載する[乙型]の登場で[甲型]と呼ばれるようになる。スペック上では良道を最高速度 25km/h で走行することが可能だった。この最高速度は、同時期の欧米戦車(ソ連のT-18、米国のT1中戦車、英国のヴィッカース中戦車 Mk.II)などと比較しても同等水準であり、むしろ陸軍が研究用に輸入していたフランスのルノー甲型・乙型(ルノーFT-17軽戦車NC27軽戦車)と比べれば速い方であった。

この頃の陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、戦車としての性能という観点から見れば一定の水準に達していたため、採用時点では大きな不満はなかった。しかし、1930年代になると技術力の向上によりトラックを含む自動車の最高・巡航速度も上がり、実際に運用した際、八九式の25km/hですらトラックの40km/hに追いつけず、不十分となった。また欧米では、1930年代に各国に広く輸出されたヴィッカース 6トン戦車(1928年)や、ソ連の快速戦車BT-2(1931年)が登場するなど、従来より高速を発揮可能な新型戦車が配備されるようになった。さらに八九式は中国戦線における悪路、路外での投入では最高速度を発揮できず、8km/h ? 12km/h 程度が実用速度となった。このような機動力では、最前線で歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、路外で追撃戦を行うのには遅過ぎた。1933年(昭和8年)の熱河作戦にて最高速度 25km/h の八九式軽戦車は次々と脱落し、最高速度 40km/h の九二式重装甲車が活躍したこともあり、トラックとの協同作戦行動ができる戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」の開発を開始した[3]。また、船舶輸送や揚陸、渡河などの日本軍の戦車運用能力という観点から見た場合、10t前後という重量は決して運用できない数値ではなかったが、日本軍の運用に適した重量は、6t前後であることが判明した[4] 九五式軽戦車と九七式中戦車(旧砲塔)からなる機甲部隊

1933年の作戦や実戦の戦訓から機動力を重視するようになった日本陸軍にとって、八九式は遅く、重く、運用しづらいなど、「軽戦車としては」失敗作となってしまった。ただし、八九式は1920年代の思想で作られた戦車であり、設計時期も1928年からと遅かったことも影響した。結果的に1930年代の戦車の高速化の時代に対応できず、一世代遅れの戦車となってしまった。

また、主力となる新型戦車は、ある程度の数を揃える必要性と財政上の理由からも、安価な軽戦車とすることが決まっていた。こうして上述の要求(軽くて速くて運用しやすい)を基に、八九式「軽戦車」の後継の、機甲戦力の主力となる戦車として、九五式軽戦車は開発された。1935年(昭和10年)の九五式軽戦車の採用に合わせ、重量の増えた八九式は新たに中戦車の区分(10tより上?20t以内)[5]を設けた上で中戦車に再分類された。同時に重戦車の分類基準[6]も引き上げられた。
九五式の導入

こうして1920年代後半の「軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立て」で戦車隊を整備するという日本陸軍の構想は、1930年(昭和5年)を境に大きく転換し、最新の軽戦車と豆戦車が研究用に輸入され[7]、1930年代前半の「軽量化と高速化」の要求に対応し、1935年(昭和10年)に重戦車が中戦車に置き換えられて「軽戦車と中戦車の二本立て」となり、暫定的に「九五式軽戦車(40km/h)と八九式中戦車(25km/h)」の組み合わせを経て、1937年(昭和12年)に「九五式軽戦車(40km/h)と九七式中戦車(38km/h)」の組み合わせでようやく達成されるのと同時に、戦車に対する方向性が確立されることとなった。

九五式軽戦車は軽量・快速だが小型・軽装甲であり37mm戦車砲の榴弾の威力が小さい(危害範囲が狭い)ので、本車を補完するために、八九式「中戦車」の後継として、八九式よりも最高速度と装甲厚を増した九七式中戦車が開発された。榴弾の威力が大きい(危害範囲が広い)が装甲貫徹能力に劣る短砲身57mm戦車砲を搭載した九七式中戦車は、「火力支援戦車」「歩兵支援戦車」の色合いが濃い物であった。

よく誤解されがちであるが、「九五式軽戦車があまりに非力で主力になれない失敗作だったので、代わりに九七式中戦車が開発された」わけではない。また、「中戦車である九七式が主力となる戦車で、軽戦車である九五式が補助となる戦車」という見方は、第二次世界大戦後半の、軽戦車が陳腐化した状況からの間違った見方である。開発当時はあくまでも九五式軽戦車こそが主力であり、九七式中戦車はそれを補完する存在であった。いわば両車は、ドイツ陸軍III号戦車IV号戦車イギリス陸軍巡航戦車歩兵戦車のような関係であった[8]

こうした日本陸軍の戦車運用に関する戦闘教義が変化するのは、試製九八式中戦車試製四十七粍戦車砲を搭載することによって、中戦車にも強力な対戦車戦闘能力を求めるようになった、1939年(昭和14年)頃からだと考えられる[9]
開発
日本版 6トン戦車 の開発 改修型試作車。起動輪と誘導輪に軽量化のための肉抜き穴があることや、誘導輪に歯が無いことが確認できる。車体側面にバルジが無い、砲塔に車長展望塔が無い、砲塔後部に機関銃が無い、砲塔形状が円錐台状、機銃手席前面の傾斜角度、機関室上部両側面の傾斜が無い、機関室上部右側面の排気窓が無い、砲塔上面の探照灯、車体後部の出入口扉(点検窓)など、量産車との違いが確認できる。主砲操作メカニズムや、消音器を車体右側面に配置するなど、ルノー軽戦車の影響がみられる。

本車は日本において初めて、設計および試作段階から、民間企業(三菱重工業1934年(昭和9年)から。開発開始時は三菱航空機))によって開発された戦車である。九五式軽戦車の開発のそもそもの契機は、関東軍による機械化実験部隊(後の独立混成第1旅団)の編成計画とされる。開発開始前年の1930年(昭和5年)に研究用にヴィッカース 6トン戦車E型 Type A(双砲塔型)1輌を輸入し、1931年(昭和6年)9月に千葉の陸軍歩兵学校が関東軍の要望を基に「歩兵戦闘用軽戦車」の研究要望案を提出、1931年(昭和6年)から研究が始まった。

1932年(昭和7年)に陸軍技術本部に軽戦車開発の要望の具体的な概要が提示されたが、満州事変の一環として熱河作戦1933年(昭和8年)2月23日?5月31日)が行われたことを受け、「機動戦車」の開発要請が出された。


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