九九式艦上爆撃機
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愛知 D3A 九九式艦上爆撃機

九九艦爆一一型(撮影年不明)

用途:急降下爆撃機

分類:艦上爆撃機

設計者:五明得一郎、森盛重、尾崎紀男[1]

製造者:愛知時計電機のち愛知航空機

運用者: 大日本帝国海軍

初飛行:1938年1月

生産数:1,486機

運用開始:1940年

退役:1945年

運用状況:退役
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九九式艦上爆撃機(きゅうきゅうしきかんじょうばくげきき)は、昭和11年(1936年)「十一試艦上爆撃機」として試作が始まり、愛知航空機(1943年愛知時計電機から独立)が受注・生産を行い、太平洋戦争初期に活躍した、日本海軍の艦上急降下爆撃機。略称は九九式艦爆、もしくは九九艦爆。記号はD3A。アメリカ側コードネームはVal(ヴァル)。目次

1 開発

1.1 十一試艦上爆撃機から一一型

1.2 二二型


2 生産

3 派生型

4 戦歴

5 栄光と悲劇

6 諸元

7 現存する機体

8 登場作品

8.1 映画

8.2 漫画・アニメ

8.3 小説

8.4 ゲーム


9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

開発
十一試艦上爆撃機から一一型

当初海軍から試作の下命を受けたのは、中島飛行機三菱航空機・愛知航空機であったが、三菱は早期に開発を断念し、中島と愛知が開発競争を行った。十一試艦上爆撃機では実用化に向けて堅実な設計が求められ、エンジンは既存の九六式艦上爆撃機搭載の中島「光」一型の改良型を用いることとされた[2]

愛知は、ドイツハインケル He 70(海軍が民間型を1機輸入)を参考に[2]、全金属製・固定脚、主翼両側下面に急降下制動ブレーキ板(ダイブブレーキ)を配置し、主翼は低翼式を採用、主翼・尾翼の端を楕円形とした。

昭和13年(1938年)に初飛行に成功。開発当初の本機の挙動は不安定で、何度も改良を余儀なくされた。特に問題であったのは翼端失速による不意自転である。これを主翼の捩じり下げの増加、および垂直尾翼前方のヒレ[2]を追加して解決した。本機は中島社製の十一試艦爆と競争試作されたものであるが、中島十一試艦爆は海軍側の要求変更に対し、設計が間に合わず納期遅れで失格となった。これにより本機は昭和14年12月16日、「九九式艦上爆撃機一一型」として海軍に正式採用された。試作機は中島製の光一型エンジンであったが、量産機では三菱の金星四四型(または四三型)が搭載された[2]
二二型

太平洋戦争の中期になると一一型では性能面で物足りない部分も増えてきたため、1942年(昭和17年)8月に仮称九九式艦上爆撃機一二型と呼ばれた改良型が試作された。そして、1943年(昭和18年)1月に九九式艦上爆撃機二二型(D3A2)として正式採用された。

二二型はエンジンを金星五四型(1300hp)に換装した他、プロペラスピナーの追加や風防の後部延長等の変更およびエンジンカウリングや尾翼前縁の形状変更などが施された。これらの改造により速度性能や上昇力は向上したが航続性能は低下した。二二型は1943年初めから部隊配備が開始された。
生産

生産は1939年(昭和14年)から開始され、愛知において一一型が476機(増加試作機を含む)、二二型が816機生産された。この他、昭和飛行機でも二二型の後期生産型が220機生産された。この内、終戦時に残存していたのは135機だった。
派生型

二二型の一部の機体は、後部席に操縦装置を付けた練習機に改造された。これらの機体は仮称九九式練習用爆撃機一二型(D3A2-K)と呼ばれていた。また、機体を全木製化した明星(D3Y)は、終戦時にテスト中であった。
戦歴 第二次ソロモン海戦翔鶴艦載機 整備中の九九式艦上爆撃機 発進準備中


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