九一式魚雷
[Wikipedia|▼Menu]

九一式魚雷
九一式魚雷(下半分は黒色塗りつぶし修正)、1941年11月真珠湾攻撃直前、空母赤城飛行甲板上、背景は択捉島単冠湾
種類魚雷
原開発国 大日本帝国
運用史
配備期間1931?1945年
配備先 大日本帝国海軍
関連戦争・紛争第二次世界大戦太平洋戦争
開発史
開発者成瀬正二少将と彼のチーム
開発期間1930?1945年
値段20,000 (1941年当時)
諸元
重量848 kg
全長5.270 m (17 ft 4 in)
直径45 cm (17-3/4 in)

最大射程2,000 m
炸薬量炸裂火薬量 235 kg, 頭部重量 323.6 kg(九一式頭部改3)
テンプレートを表示

九一式魚雷(きゅういちしきぎょらい)は、大日本帝国海軍航空機からの投下用に開発・使用した航空魚雷第二次世界大戦における艦船攻撃に使用された。九一式航空魚雷ともいう。

九一式魚雷(改2)には二つの特徴があった。

水中突入時に飛散する木製の空中姿勢安定板を尾部に装着した(1936年)。

ローリングを安定制御する角加速度制御システム(PID制御)を備えた(1941年)。これは「航空魚雷」にとって最大のブレークスルーだった。

これらによって九一式航空魚雷は、高度 20 m、速度 180 ノット (333 km/h) で、しかも真珠湾のような浅い軍港で発射できるようになった。さらに、九七式艦上攻撃機の水平最高速度 204 ノット (378 km/h) を超える加速降下雷撃で、荒れた海でも発射できるようになった。

直径は、450 mm (17-3/4 in) であった。兵器として制式採用された九一式魚雷に実際に使用されたのは、本体設計が5形式、頭部が5形式あり、頭部重量 213.5?526.0 kg、搭載炸薬量 149.5?420.0 kg、水中走行速度 42 ノット (77.8 km/h) で、射程は 2,000?1,500 m だった。

九一式魚雷は大日本帝国におけるほぼ唯一の航空魚雷だった。したがって、単に航空魚雷といえば九一式魚雷のことを指した。他の型式の魚雷である九三式魚雷と九五式魚雷は水上艦艇および潜水艦で使用され、九七式魚雷甲標的で使用された。
各技術仕様

ここに示すのは、九一式航空魚雷の各形式一覧である。[1]

九一式航空魚雷改2 各仕様項目-
炸裂火薬量204 kg
速度42 ノット
射程2,000 m
直径45 cm (17-3/4 in)
全重量838 kg
全長5.427 m
エンジン200 hp, ウェットヒーター型, 8気筒 星型エンジン

各型一覧

九一式航空魚雷と九一式頭部, 実用モデル本体頭部炸裂火薬 (kg)速度 (ノット)射程 (m)全長 (m)直径 (m)全重量 (kg)頭部長 (m)頭部重量 (kg)備考
91式91式149.5422,0005.2700.457840.958213.5?
改1改1149.5422,0005.2700.457840.958213.5木製の着脱式尾部安定板に対応(1936年)
改2改2204.0422,0005.4700.458381.158276.5本体強化に対応 1938年, 回転ロールの制御システム対応 1941年
改3改3235.0422,0005.2700.458481.460323.6?
改3改3_改235.0422,0005.2700.458481.460323.6頭部強化対応
改5改3_改235.0411,5005.2700.458481.460323.6本体に精密鍛造とステンレス鋳物鋼対応
改5改7420.0411,5005.7100.4510801.900526.0船底のビルジ破壊対応頭部

後期型は重量増加により射程が短くなったが、雷撃は基本的に近距離射出するため、問題とはならなかった。九一式頭部改3には、対応する最高射出速度により改3と改3改があった。頭部改7は頭部重量が増大し、浅海面雷撃には対応しなかった。
開発史と雷撃戦術

九一式魚雷は1932年皇紀2592年)12月1日付内令兵第七十二号により兵器採用されたが、この時から真に実用可能な航空魚雷にたどり着くまでの試行錯誤が続いた。
古典的な射法

改2型以前の九一式航空魚雷は発射に慎重さを要する魚雷だった。脱落式の空中姿勢安定木製尾翼「框板」を備えてはいたものの、射出速度 130 ノット (240 km/h) 以下、高度 30 m 以下という制限があり、実際に飛行速度が遅ければ遅いほど、魚雷の走行結果は良くなった。複葉機や固定脚(三菱九七式艦上攻撃機)の飛行機でも雷撃実用性がある、と見なされたこともあった。機動部隊の第一航空戦隊に所属する九七艦攻隊は、その当時世界各国の海軍航空部隊(実質的にはアメリカ海軍航空隊および大英帝国海軍航空隊)が行っていた伝統的雷撃法で訓練していた。

航空廠の開発チームは、航空魚雷の最大射程は 2,000 m (1.8 海里) 以内なら可能と結論付けた。雷速が 40 ノットで、目標艦船が速度 30 ノットで急激な回避行動を行うとすると、命中させるためには目標にできるだけ接近しなければならなかった。
第2射法

「第2射法」と呼ばれた方法は、浅い軍港において、予想される猛烈な対空砲火の中を、速度 100 ノット (185 km/h)、高度 10 m で行う雷撃だった。当時最新型の中島九七式艦上攻撃機では、この速度で飛行するのは難しく、脚とフラップを下ろして空気抵抗を増やして飛行しなければならなかった。雷撃隊の搭乗員たちは、水深 10 m という浅い鹿児島湾で1941年8月終盤まで、この射法の訓練をしたものの、この射法では雷撃成功には確信がもてなかった。
第1射法

1941年8月に、安定器を備えた九一式魚雷改2の最初の10本のプロトタイプが航空母艦赤城」の雷撃隊に供与され、極めて良好な結果を示したので、直ちに全雷撃隊は「第1射法」に切り替えた。脚とフラップを収納した状態で、より高速である 160 ノット (約 300 km/h)、高度 20 m で雷撃するようになった。

目標艦船の 800 m 手前で、速度 300 km/h, 高度 60 m で発射された魚雷は、3.5 秒後に速度 324 km/h で 290 m 先の水面に角度 22° で突入する。その後、水中を 500 m 駛走して、21秒後に目標に命中する。


目標艦船の 620 m 手前で、速度 300 km/h, 高度 10 m で発射された魚雷は、1.4 秒後に速度 304 km/h で 120 m 先の水面に角度 9.5° で突入する。その後、水中を 500 m 駛走して、21秒後に目標に命中する。

1942年5月8日朝の珊瑚海海戦において、第五航空戦隊の九七式艦上攻撃機隊は、アメリカ軍の防御陣を突破して、USS「レキシントン」(CV-2) と USS「ヨークタウン」(CV-5) に全速降下した。小型のヨークタウンには、飛行隊長の島崎少佐が率いる4機1隊が雷撃したが、4本の魚雷がすべて回避された。巨大なレキシントンには、航空母艦「瑞鶴」から1隊、「翔鶴」から2隊の合わせて3隊、14機の九七式艦上攻撃機が集中攻撃し、最後の2本が左舷に命中した。

これらの九七式艦上攻撃機は、従来の雷撃機ではできなかった最高速度 204 ノット (378 km/h) を超える全速で接近してきた。レキシントンの艦橋にいた F. C. シャーマン艦長は、魚雷を抱いたまま船の近くに撃墜された九七式艦上攻撃機を観察し、その尾部がなにか箱型のもので覆われているのを見た。彼はこれが高速度で雷撃できる理由だと報告した。
高速雷撃射法

速度 300 ノット (556 km/h) の高速度での雷撃では、投下高度は最高 300?350 m に制限された。この高度制限は、水面入射時の二重反転スクリューのプロペラ翼の強度限界による制限だった。これは横須賀空でテスト中に、陸上爆撃機「銀河」(P1Y1) から高速かつ高度 100 m で射出された魚雷が、スクリュー翼のひび割れによって進路を曲げて駛走したことによる。高速度雷撃では、最低高度制限も設定され、40 m に設定された。高度 30 m 未満で投下されると、水面上を飛び跳ねる可能性があった。

1944年3月に横須賀海軍基地において、高機動性を陸軍操縦士搭乗のキ-67(四式重爆撃機)を用いた 300 回のテストから射出諸元を導出し「高速雷撃射法」を確立した。海軍はこれを制式射法として承認した[2]。電波高度計 タキ13 を装備した キ-67 は1トン魚雷を抱いて高度 1,500 m から水面レベルまで急降下し、2種類の形式で射出する。
速度範囲 370?460 km/h (200?248 ノット) では、高度範囲 30?120 m で射出

速度範囲 460?560 km/h (248?302 ノット) では、高度範囲 50?120 m で射出

左右への横滑り

雷撃隊搭乗員の戦死率は非常に高く、第二次大戦初期で 30?50 %、太平洋戦争の終盤においては昼間攻撃作戦では 90?100 % の戦死率に達したので、熟練搭乗員達は生き残りのために戦術を工夫した。左右に「横滑り」(機体の進行方向に対して機首の向きを左右に傾けること)して飛行経路を欺瞞し、航空魚雷の射点に到達するまで射弾を回避したのもその一つである。

天山 (B6N2) が USS「ヨークタウン」(CV-10) に雷撃をした場面の一連の写真は典型的な雷撃戦術を示している。2枚めのこの写真[注釈 1]では、この天山は自機の左(写真では右)方向に向かって横滑りしていて、対空砲火の炸裂煙は機の右(写真では左)に外れている。[注釈 2]
歴史年表1931年 九一式航空魚雷、兵器制式採用、生産開始。1936年 改1 着脱式尾部木製安定板を導入。1937年 木製緩衝器装着のうえで、高度 500 m と 1,000 m からの投下デモンストレーション。1939年 改2 生産開始。水面突入後の沈下深度が大きな問題となる。1941年 改2 ロール安定制御器を導入して浅深度雷撃テストをクリア。真珠湾攻撃マレー沖海戦。1941年 改3 生産開始。1942年 インド洋作戦珊瑚海海戦ミッドウェー海戦南太平洋海戦。1943年 改5 生産開始。1944年 マリアナ沖海戦台湾沖航空戦
航空魚雷を開発した科学者、エンジニアたち


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef