人口16,223人、面積5.97km²、人口密度2,717人/km²。(2024年4月1日、推計人口)
以下の1町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、以下の区域にあたる。 長岡京や山城国国府などが置かれ、また戦国時代末期には勝竜寺城、江戸時代にも淀城が当郡内に建設されるなど山城国中部を治める要地とされた。そのためか山崎の戦いといった歴史に名高い戦いが本郡で行われた。 和銅6年(713年)の好字改正令によって弟国郡から乙訓郡に改められた[1]。 前身の弟国郡は大宝元年(701年)の大宝令により設置されたものだが、弟国を「弟の国」と解釈し、「兄の国」=エクニ(兄国)の所在について従来より様々な説が唱えられてきた[1]。 「兄の国」を葛野郡(現在の京都市西部)とみて、弟国郡は大宝令施行と同時に葛野郡から分割されたとの説が1955年に出されて有力であったが[2]、1980年に藤原宮跡から「弟国評鞆岡三」と書かれた木簡が出土して、大宝以前の「評」制の時代から存在したことが判明し[3]、最初にこの説を唱えた黛弘道も1982年に自らの見解を修正している[1]。弟国評の設置時期については概ね7世紀の後半とされている[1]。 そのほか「オトクニ」の語源を「弟の国」以外に求めた堕国(おちくに)説、少国(おぐに)説なども存在する[1]。 『古事記』では、四道将軍の一人で、丹波に派遣された美知能宇斯王(みちのうしのみこ)の末娘の円野比売命(まとのひめのみこと)が、天皇の妃に選ばれなかったことを恥じて、丹波への帰路、淵に身投げをしたことから、そこを「堕国」(おちくに)と言った、と乙訓地名の由来譚を語っている[4]。 『和名類聚抄(高山寺本)』に記される郡内の郷は次の11郷。かっこ内は訓読み。 『和名類聚抄(元和古活字那波道圓本)』では9郷の記載がある。 神名帳比定社集成
大山崎町(おおやまざきちょう)
郡域
京都市
伏見区の一部(久我各町・羽束師各町・旧淀村(淀樋爪町、淀水垂町、淀大下津町))
南区の一部(久世各町)
西京区の一部(大枝各町・大原野各町)
向日市、長岡京市の全域
近代以前の沿革
オトクニの語源
郷
山埼郷(夜末佐岐)
鞆?郷(度毛乎賀)
長?郷
大江郷(於保江)
物集郷(毛豆女)
訓世郷(郡勢)
榎本郷
羽束郷(波豆賀之)
石作郷(以之都久利)
石川郷
長井郷
山埼
鞆岡
長井
大江
物集
訓世
榎本
羽束
石作
式内社
社名読み格付記社名所在地備考
乙訓郡
表
話
編
歴
羽束師坐高御産日神社ハヅカシニマスタカミムスヒノ大月次新嘗羽束師坐高御産日神社京都府京都市伏見区羽束師志水町 ⇒[1]
与杼神社ヨドノ小與杼神社京都府京都市伏見区淀本町
大井神社オホイノ
オホヰノ小(論)大井神社京都府京都市右京区嵯峨
乙訓坐火雷神社
(乙訓坐大雷神社)オトクニニマスオホイカツチノ名神大月次新嘗(論)角宮神社京都府長岡京市井ノ内 ⇒[2]
(参)合祀:向日神社京都府向日市向日町
石作神社イシツクリノ小合祀:大歳神社
走田神社ハシリタノ小走田神社京都府長岡京市奥海印寺
御谷神社ミタニノ小御谷神社京都府長岡京市浄土谷
国中神社クナカノ小綾戸國中神社京都府京都市南区久世上久世町
向神社ムカヘノ
ムカフノ小向日神社京都府向日市向日町
大歳神社オホトシノ大月次新嘗大歳神社京都府京都市西京区大原野灰方町 ⇒[3]
茨田神社マタノ小(参)茨田神社京都府京都市南区久世築山町菱妻神社境内社
石井神社イハイノ
イハヰノ小石井神社京都府京都市西京区大原野石作町
神川神社カムカハノ小神川神社京都府京都市伏見区羽束師鴨川町
久何神社コガノ
クカノ小久我神社京都府京都市伏見区久我森ノ宮町
簀原神社スハラノ小(参)簀原神社京都府京都市南区久世築山町菱妻神社境内社
小倉神社ヲクラノ大月次新嘗小倉神社京都府乙訓郡大山崎町円明寺 ⇒[4]
入野神社イリノ小入野神社京都府京都市西京区大原野上羽町
自玉手祭来酒解神社タマテヨリマツリキタルサカトケノ名神大月次新嘗
元名山埼社自玉手祭来酒解神社京都府乙訓郡大山崎町天王 ⇒[5]
神足神社カウダニノ
カムタリ小神足神社京都府長岡京市東神足
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近代以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。