乙支文徳
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乙支文徳

各種表記
ハングル:?? ??
漢字:乙支文コ
発音:ウルチ・ムンドク
日本語読み:いつし ぶんとく
ローマ字:Eulji Mundeok
RR式:Eulji Mundeok
MR式:?lchi Mund?k
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乙支文徳(いつし ぶんとく、6世紀後半ころ - 7世紀初頭ころ)は、高句麗将軍であり大臣。「朝鮮最大の民族英雄の一人[1]」「朝鮮では救国の英雄として今もたたえられている[2]」とされる。『三国史記』巻四十四・乙支文徳伝においては世系は不明とあるが、1794年に洪良浩(朝鮮語版)が編纂した『海東名将伝』に「平壌石多山の者」と記され、李氏朝鮮時代16世紀に編纂された『新増東国輿地勝覧』も「平壌府の人物」と記している[3][4]。しかし、いずれも後代の記録であり、しかも一切の根拠を示しておらず、信憑性はないと指摘されている[4]。さらに、元々は、高句麗に帰化していた鮮卑族あるいは鮮卑族の子孫ともいわれる[5][6][7][4]第二次高句麗遠征612年)において、隋軍に偽りの降伏を申し入れ撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝利を収めた。その功績は高く評価されてはいるが、戦後の文徳の動向は『三国史記』には記事が残っておらず、死の状況についても詳細は解らない。
薩水大捷

高句麗の嬰陽王は、隋の第一次高句麗遠征で一時は降伏し和平を結ぶと見せかけて東突厥と通じていた。これが隋に露呈し、隋の煬帝は、113万の大軍[8]で高句麗軍に襲いかかった(第二次高句麗遠征 - 612年)。

隋軍は両翼左右それぞれ12軍に分かれて兵を進め、宇文述・于仲文らの9軍[9]鴨緑江の西辺に集い、高句麗と対峙した。

宇文述は煬帝より嬰陽王か乙支文徳将軍の捕縛を命じられていた。文徳は隋軍に投降するが、慰撫使の劉士龍が文徳を逃してしまう。このとき隋軍の兵備が重装にもかかわらず兵糧が少なかったのを見ていた。文徳が自軍に戻ると、宇文述の追討軍を迎え撃った。文徳は一日に7回戦っても勝つことはできなかったが、その間に隋軍も兵糧が尽きて疲弊していた。隋軍は功がないまま薩水(清川江)を越えて平壌から30里ほどの山間に布陣していた。そこで平壌城の文徳は于仲文に降伏を表意する詩を書いて送り(次節#与隋将于仲文詩参照)、軍を撤収すれば嬰陽王を引き渡すと伝えた。功を焦った宇文述は停戦に応じ、方陣を組んで軍を退却を始めた。そこへ文徳の軍が襲い掛かり、薩水を渡ろうとしていた隋軍の背後を突いた。油断した隋軍は、右屯衛将軍の辛世雄が戦死するなど大きな被害をうけた。遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人であったという。『三国史記』ではこれを記念的な大勝利とし、韓国・朝鮮では「薩水大捷」と伝えている。
与隋将于仲文詩

"隋の将 于仲文に与ふるの詩"として伝えられる詩文(『三国史記』巻四十四・乙支文徳伝に所収)は以下の通りである。神策究天文 ((隋軍の)優れた謀りごとは天の理を究め、)妙算窮地理 (知略は地の理をも窮めるほどである。)戦勝功既高 (戦勝の功績は既に甚だしく、)知足願云止 (もう十分であることと認め、戦いを止められてはどうか?)

七戦七敗の末に隋軍を翻弄して引き付けた乙支文徳が、「隋軍はもう十分に勝ったから戦を止めてはどうか」と伝え、自らに戦う意志の無いことを示して隋軍を油断させようとしたものとみられている。
乙支文徳の出自に関する論争

乙支文徳の生涯は謎に包まれており[3]生没年すら不明である[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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