乙川
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乙川
乙川。左岸から撮影。
水系一級水系 矢作川
種別一級河川
延長34 km
平均流量-- m³/s
流域面積258 km²
水源巴山 (愛知県)
水源の標高-- m
河口・合流先矢作川(愛知県)
流域愛知県
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岡崎市周辺の地理矢作川下流支派川の河川改修の歴史

乙川(おとがわ[1][2])は、愛知県岡崎市を流れる河川一級水系矢作川最大の支流(1次支川)である。菅生川、大平川の別称がある。
地理

愛知県岡崎市東部の新城市との境に位置する巴山近くに発し[3]、西に流れる。岡崎市茅原沢町で2次支川である男川が合流した後、岡崎市天白町矢作川に合流する。合流地点付近にはJR東海道本線が走っている[3]

岡崎公園近くの河川敷では、毎年4月に家康行列の戦国模擬合戦が行われる。また、毎年8月初旬に花火大会が開催されている。

1970年昭和45年)10月24日、岡崎都市美化協会が中心となり、明代橋上流の左岸で小学校児童らにより、コイ4千匹が放流された。放流したコイの追跡調査をするとともに、「コイを死なせないで」という嘆願を排水の著しい沿岸の工場に対し行った。コイの愛称は公募により「みかちゃん」と名付けられ[4]、乙川では長い間みかちゃんの放流が続けられた。

1987年(昭和62年)3月、殿橋と潜水橋との間に「乙川噴水」が作られた[5]。「岡崎市乙川噴水」で、手づくり郷土賞平成元年度(生活の中にいきる水辺)受賞。令和元年度には「川で遊び、川に学び、川と暮らす「おとがワ!ンダーランド」が 同賞大賞受賞。
六名堤

現在の乙川は西に流れて矢作川へと合流するが、中世までの乙川の本流は岡崎市久後崎町付近から南に流れて、現在の占部川筋へと流れていた[6]。現在の占部川と広田川の合流点付近は低地となっており、周辺山地から流れ出る河川が合流する付近では流出土砂が河底に堆積して湖沼化が進み「菱池」が形成されていた[7]。菱池から流れ出る河川は広田川筋が唯一であったが、広田川筋の河川は現在のように矢作古川とは合流せずに、そのまま三河湾に至っていた[6]

室町時代1399年(応永6年)に久後崎町付近の左岸に「六名堤(むつなつつみ)」が築かれたことで、乙川の本流は矢作川に合流するように付け替えられた[6]。この河道変更の目的は、乙川の河道跡を水田として開発すること、矢作川を利用した水運の向上などに加えて、後に岡崎城が築かれる台地を要害とすることがあったと考えられている[8]

1882年明治15年)に六名堤が切れて氾濫は旧流路を通って広田川まで至り、69村で死者43名の被害が発生した[6]
河津桜竜美丘会館付近の河津桜

岡崎市竜美丘会館裏手(東明大寺町)から竹橋(大西町字渕田)にかけての堤防は、3月になると河津桜でピンク色に染まる。1998年平成10年)春に幸田町のゴルフ場に咲く河津桜に感激した岡崎市の市民が乙川堤防に植えることを考え、愛知県と市に交渉。植樹の許可は3年弱後に下り、2001年(平成13年)1月、85人の市民が一人2万円を出し合い、800メートルにわたり1本ずつ苗木を植えた[9][10]。本数は計86本[11]

この河津桜は徳川家の家紋にちなみ「葵桜(あおいざくら)」と名付けられ、現在多くの客でにぎわう[12]
都市計画道路岡崎環状線都市計画道路岡崎環状線の新しい橋が架かる予定の場所。右岸で下水道雨水管の新設工事が行われている。

岡崎市では現在、明大寺町字大圦の主要地方道岡崎刈谷線を起点に北進し、乙川を越えて国道1号と接続し、市内の中心部付近と市街地外縁を結ぶ全長約15.9キロの都市計画道路「岡崎環状線」の整備事業が行われている[13]。岡崎環状線は全体の約90パーセントにあたる14.2キロメートルがすでに開通しており、未整備区間については、都市計画道路岡崎一色線から朝日町3丁目交差点(岡崎年金事務所東)までの440メートルの整備が優先的に進められている[14][15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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