乙女の港
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乙女の港
作者
川端康成中里恒子
大日本帝国
言語日本語
ジャンル長編小説少女小説
発表形態雑誌掲載
初出『少女の友1937年6月号-1938年3月号 挿絵:中原淳一
刊行実業之日本社 1938年4月1日
装幀:中原淳一
ウィキポータル 文学
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『乙女の港』(おとめのみなと)は、川端康成名義の長編小説。川端の少女小説として連載発表されたが、今日では、当時川端に師事していた新人の主婦作家・中里恒子(佐藤恒子)の草稿に、川端が校閲・加筆指導・手直しをして完成させた共同執筆の合作だったことが判明している作品である[1][2][3][4][5]。「花選び」「牧場と赤屋根」「開かぬ門」「銀色の校門」「高原」「秋風」「新しい家」「浮雲」「赤十字」「船出の春」の全10章からなる。

横浜ミッション系女学校に通う女学生たちの交友関係を綴った作品で、上級生と下級生が擬似的な姉妹となって交際するという、当時の女学生の間で広く行われていた エス (sisters-in-law) という風習について描かれている。なお、作品の舞台は明確には書かれていないが、地名や風景描写から横浜市であると考えられている[6]

1937年(昭和12年)、少女向け雑誌『少女の友』6月号から翌1938年(昭和13年)3月号にかけて10回連載され(挿絵:中原淳一)、同年4月1日に実業之日本社より単行本刊行された。正確な発行部数は不明だが、初版から5年目で47刷に達しており、連載から初版刊行までの期間もすぐで、当時の人気ぶりが窺える作品である[4][3]
目次

1 中里恒子の草稿について

2 あらすじ

3 登場人物

4 おもな刊行本

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

中里恒子の草稿について

『乙女の港』は川端康成の単独作として発表された作品だが、新版『川端康成全集 補巻2』で発表された中里恒子との往復書簡で、中里の草稿に川端が校閲・加筆指導・手直しをして完成させていたことが示唆されており[1]、中里の才能を早くから認めて「執筆指導」していた川端と、中里が川端に全幅の信頼を寄せて「下書き」をしていたことが窺われ、共同執筆の合作だったことが今日判明している[2][5]。問題となっている川端と中里の書簡のやり取りは以下のようになっている。なお、中里の草稿の一部は死後の1989年(平成元年)に見つかっている(神奈川県近代文学館所蔵)[5]

1937年(昭和12年)9月14日付、川端康成から中里恒子へ乙女の港はだんだん文章が粗くなり、書き直すのがむつかしく、書き直すといふことは、うまく参りませんゆゑ、なるべく初めの調子でやつていただくと助かります。お書きになるのにもし興が薄れてゆくやうでしたら、早く切り上げ、別のものをまた連載するやうにしても、こちらは結構ですが、受けてゐる様子ゆゑ、なるべく続けていただきたいと思つて居ります。三千子は港に帰つて、洋子の心の戻るのに少し曲折あり、この三角関係少しモメタ方が、つなぎやすいかと思ひますがいかがですか。克子の天下あつてもよいかと思ひます。 ? 川端康成より[7]

1937年(昭和12年)9月18日付、中里恒子から川端康成へ乙女の港お言ば通り注意いたしませう。どんな風に書いても、うまくなほして下さる こんなわがままな考へ方が私にあるからかもしれません。

一回分終り 二回めの十枚まですすみましたがお手紙拝見してなほすつもりになりました。廿二日頃まで――もし間にあはねば一回分だけお送りいたします。 ? 佐藤恒子(中里恒子)より[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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