乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年11月19日 - 1947年2月1日)は、明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物とされている。
富山県出身(出生地は東京)。礪波市出町眞壽寺壽貞の次男。兄は乗杉教存である。 1904年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、同大大学院に進学して実践哲学を研究するが、同年秋より文部省に招かれて普通学務局に配される。 1913年に文部省に復帰して督学官に就任、1917年には教育と教授法研究のためにアメリカ・イギリスに1年半留学、更にフランス・イタリアの教育事情を視察して帰国した。アメリカでジョン・デューイなどと意見を交わし、日本の教育行政が学校教育に偏りすぎて、社会に出た後の教育が疎かになっていると考えるようになる。それを克服するためには、社会教育の充実が必要であるとの考えを抱いて帰国した。 帰国後、図書官
経歴
1923年の関東大震災直後には、乗杉はこの惨状を歴史として残す必要があると考え、記録映画を撮らせている。同年には自身の社会教育論をまとめた『社會ヘ育の研究』を刊行している。乗杉はこの中で社会教育を「個人をして社會の成員たるに適應(応)する資質能力を得せしむるヘ化作業」であると定義し、学校教育・家庭教育の他に一般社会の知識や道徳、文芸美術への関心向上や体力増進・生活改善のための教育が必要になると唱え、その実現のために教育行政は「学校の拡張事業」「公開講演事業」「図書館・巡回文庫」「教育観覧施設」「各種修養団体」「職業指導」「民衆娯楽の改良事業」「公衆体育」「生活改善運動」「特殊児童の保護教育」の以上10項目の充実・発展に取り組む必要があるとしている。また、日本人が国家に対しては公共犠牲を捧げる事は出来ても、社会一般に対してこれを捧げる事が出来ていないと指摘し、更に自主自立の精神に乏しい事を嘆き、個人の自立と社会共同や公共奉仕の精神を両立させてこそ、本当の意味で民族精神を発達させて国体の維持につながると主張した。これは一見すると国家主義的にも見えるが、その内実は自由主義・個人主義と公共性の両立可能な人間の育成を目指したものであった。
図書館協会などでともに活躍した中田邦造は、「当時の役人としては型破りな人物」と評しだが、猛烈な仕事ぶりに省内では「油乗杉」という異名を轟かせる一方で、アメリカの影響を強く受けた乗杉の社会教育論への省内の警戒感は強まり、乗杉は孤立するようになる。1924年、学務局第4課は正式に「社会教育課」と改称され、乗杉は自称から本物の初代社会教育課長となる。だが、その直後に松江高等学校校長へと転任となり、文部省を去ることになった。
さらに1928年には東京音楽学校校長に転任することとなった。東京音楽学校では、別科で扱われていた邦楽を本科に昇格するよう文部大臣であった松田源治に働きかけ、1936年(昭和11年)に邦楽科を設立させることに成功した。ただし、邦楽科を設立させる理由として「日本精神復興」を掲げたこと[2]は、第二次世界大戦後、国家主義的だとして邦楽科を廃止する動きにつながった。
晩年は音楽教育に力を注ぎ、大日本吹奏楽連盟(現全日本吹奏楽連盟)初代理事長[3]、日本教育音楽会会長、音楽会館理事長などを歴任した。
栄典
1945年(昭和20年)10月30日 - 正三位[4]
著作
『参戦後の米国に関する報告』文部省、1918年3月
乗杉嘉寿著『社会教育の研究』同文館、1923年
『現代「社会教育」基本文献 3 社会事業と社会教育』現代「社会教育」文献研究会、1971年8月
乗杉嘉寿著『社会教育の研究』有明会館図書部、1983年6月
小川利夫監修『社会教育基本文献資料集成 8 社会教育行政論の形成4』大空社、1991年1月
乗杉恂編『外遊ところどころ』竹頭社、1993年6月
乗杉恂編『乗杉嘉寿遺文集』乗杉恂、1995年8月
乗杉恂編『乗杉嘉寿 社会教育草創期における論文講演選集』乗杉恂、1999年2月上巻/下巻
脚注[脚注の使い方]^ 乗杉嘉壽.圖書館講習所創立當時を偲びて.圖書館雑誌.1931.6,vol.25,no.6,p.201-203.