乗合馬車(のりあいばしゃ)は、不特定多数の客を乗せ、一定の路線を時刻表にしたがって運行される馬車である。今日の路線バスの起源となった公共交通機関であり、辻馬車(タクシーの起源)とは区別される。また都市間などの長距離で運行されるものは駅馬車と呼ばれる。ここでは都市内の短距離で運行される乗合馬車について記述する。
フランス語ではオムニビュス、英語ではオムニバス(共に omnibus)と呼ばれ、後の「バス」の語源となった。
乗合馬車を路面に敷かれた軌道上を走行するようにしたものが馬車軌道であり、後には路面電車となった。 世界初の乗合馬車は1662年にブレーズ・パスカルによってフランスのパリで導入された5ソルの馬車である。これは定員8人の馬車を使い、一定の路線をあらかじめ定められた時刻表にしたがって運行された。しかし1677年には辻馬車との競合や経営難により廃止された[1][2][3]。 乗合馬車が最盛期を迎えたのは19世紀であり、1820年代に再発明された。その背景には人口の増加や産業の発展に伴う都市の拡大、道路の改良、運賃を支払うことのできる中産階級(プチ・ブルジョワ)層の出現などがある。
起源
イギリス : マンチェスターのジョン・グリーンウッド(1824年))料金所[注釈 1]の所有者であったジョン・グリーンウッド(John Greenwood
フランス : ナントのエティエンヌ・ビュローとスタニスラス・ボードリー(1826年)詳細は「スタニスラス・ボードリー」を参照
19世紀初めにフランス・ナントの船主の孫であったエティエンヌ・ビュローが、市内の事務所と倉庫の間で従業員を運ぶ馬車を考案している。
同じナントで工場を経営していたスタニスラス・ボードリーは、1826年に工場に隣接する公衆浴場と市内中心部を結ぶ送迎馬車の運行を始めた。ボードリーはやがて馬車の運行そのものが事業になることに気づき、ボイエルデューのオペラにちなんで「白婦人(La Dame Blanche)」と名付けた乗合馬車の運行を始めた[2]。
パリ1900年ごろのパリの乗合馬車
ボードリーの始めた乗合馬車事業は急速に他の都市へも広まった。ボードリー自身も1828年にはパリに進出し、10系統の乗合馬車を運行した。しかしすぐに他の事業者との競争が生じた上、天候不良による飼料の高騰や不動産投資の失敗もあって1830年にボードリーの会社は倒産、ボードリーは自殺した[2][5]。
ボードリーの乗合馬車は車内を前(一等)、中(二等)、後(三等)の三つに区分し、各区画に横方向(クロスシート)の座席を設けていた。運賃は一等が6スー(0.3フラン)、二等が5スー、三等が4スーであった。ボードリーの事業を引き継いだ会社では等級制を廃止し、座席を縦方向(ロングシート)とした。さらに異系統の乗合馬車を乗り継ぐことのできる制度が設けられ人気となった[5]。 1832年にアメリカ合衆国・ニューヨークのハーレム地区において、路面に敷かれた軌道上を走る馬車軌道(streetcar)が生まれている。馬車軌道はその後アメリカ各地に広まり、大陸ヨーロッパでは1855年にパリで「アメリカ式鉄道(Chemin de fer Americain)」として導入された。馬車軌道は乗合馬車の系統を置き換えていったが、乗合馬車も経費の安さから用いられ続けた[2]。 フランス語や英語で乗合馬車を意味するomnibusは、元はラテン語 omnes「すべて」の変化形 omnibus に由来し「すべてのもののために」「すべての人のために」を意味する語である。これがナントにおけるボードリーの乗合馬車の通称となり、やがて乗合馬車を意味する一般名詞となったのであるが、その由来には諸説ある。 一般的に知られている説は以下のようなものである。当時のナントにオムネ(Omnes)という名の帽子店があり、店名と「すべての人はすべての人のために」というラテン語の標語を掛け合わせた "Omnes Omnibus" という看板を掲げていた。この看板の前がボードリーの馬車の乗り場となっていたため、馬車を "omnibus" と呼ぶようになった。 これはフランスの都市交通博物館による説明[2]であり、本城靖久『馬車の文化史』もこの説を採用している[5]。しかし Omnes Omnibus という看板が存在したという同時代の記録はなく、ナント市公文書館によればそもそも乗合馬車の路線沿いにオムネなる帽子店が実在したかも確認されていない[6]。 一方で、omnibusという通称はボードリーの会社の会計係であったダゴール(Dagault)によりラテン語から直接考案されたとする説もある。ダゴールの息子のE.ダゴールがナント市公文書館に寄贈した資料によれば、あるとき事務所で、「白婦人」という名前ではあるが、それが男性、女性、子供のいずれをサービスの対象としているかとは関係ないということが話題となった。このときダゴールが、ならば「すべての人のための車(voitures omnibus)」と呼べばよいと提案し、この別名が普及したという[7]。 乗合馬車の意味でのomnibusという語が最初に記録されたのは1826年12月2日付けの雑誌Petit Bretonの記事である[7]。1828年のパリ進出以降はボードリーはomnibusという名を正式名称として用いた[2]。 1855年にパリの乗合馬車事業が乗合馬車一般会社(Compagnie Generale des Omnibus, CGO)に統一された頃には、屋根の上にも座席を設けて定員を増やした馬車が現れている。このころには屋上席への乗り降りには梯子を必要としていた。1878年にパリで車両の後方に乗降用のデッキを設け、ここに屋上席への螺旋階段を取りつけた車両が導入された[2]。 1881年にはマルセイユで馬車製造業者のリペール(Ripert)によって、「リペールの車(Car Ripert)」と呼ばれる形式の馬車が発明された。これは馬車軌道の車両にならって前後二つの乗降用デッキを有し、小型の車輪を車体の内側に取りつけていた。屋上席はなく、比較的需要の小さい系統で用いられた[8]。 19世紀末に乗合自動車(バス)が発明されると、乗合馬車のバスによる置き換えが進んだ。20世紀初めには実用的な交通機関としての乗合馬車は消滅した[5][9]。1870年歌川芳虎による乗り物図。右下に乗合馬車 日本における乗合馬車は、1869年(明治2年)に始まった[10]。
馬車軌道の誕生
「オムニバス」の語源
車両の発達
リペール以前のトゥールーズの乗合馬車。1855年のパリの車両の模倣。屋上席へは梯子で上る。
リペール式の乗合馬車(トゥールーズ)。
螺旋階段つきのパリの乗合馬車(1910年)。
衰退
日本千里軒の乗合馬車。3代広重『東京府下名所尽 京橋従煉瓦石之図』より
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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