久間章生
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日本政治家久間 章生きゅうま ふみお
2度目の防衛庁長官(第1次安倍内閣)の入閣に際して公表された肖像写真
生年月日 (1940-12-04) 1940年12月4日(83歳)
出生地 日本 長崎県南高来郡加津佐町
(現・南島原市
出身校東京大学法学部第3類卒業
前職長崎県庁農林部職員
所属政党自由民主党
称号法学士(東京大学・1964年
旭日大綬章
初代 防衛大臣
内閣第1次安倍内閣
在任期間2007年1月9日 - 2007年7月4日
第59・72代 防衛庁長官
内閣第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣第1次安倍内閣
在任期間1996年11月7日 - 1998年7月30日2006年9月26日 - 2007年1月8日
衆議院議員
選挙区(旧長崎1区→)
長崎2区
当選回数9回
在任期間1980年 - 2009年7月21日
長崎県議会議員
当選回数3回
在任期間1971年4月 - 1980年6月
その他の職歴
第44代 自由民主党総務会長
(総裁:小泉純一郎
2004年9月27日 - 2006年9月20日
自由民主党幹事長代理
(総裁:小泉純一郎)
2003年 - 2004年9月27日)
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久間 章生(きゅうま ふみお、1940年昭和15年〉12月4日 - )は、日本政治家農林官僚昭和ホールディングス社外取締役(監査等委員)[1]

防衛大臣初代)、防衛庁長官(第5973代)、運輸政務次官竹下内閣)、衆議院議員(9期)、長崎県議会議員(3期)、自由民主党総務会長、同幹事長代理、同副幹事長、同国会対策副委員長などを歴任した[1]
概説

長崎県南高来郡加津佐町(現・南島原市)の農家に生まれる。両親は教育者(父は高校教員、母は中学教員)。

長崎県立口加高等学校東京大学法学部卒業後、農林省に入省。農林省退職後に長崎県庁に入庁し[2]長崎県議会議員を経て、1980年に衆議院議員に初当選。第2次橋本内閣防衛庁長官として初入閣。橋本龍太郎首相は米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の移設問題や日米防衛協力のための指針見直しを控え、自らの意向を反映するには欠かせないと考え、1997年9月11日発足の第2次橋本改造内閣でも留任し、久間は国防族幹部の地位を確立した[3]

小泉政権時代、同じ橋本派野中広務綿貫民輔らが反小泉の姿勢を採る中、額賀福志郎らと共に、親小泉の姿勢を見せていた参議院の実力者・青木幹雄と共同歩調をとり、衆院橋本派の大幹部となった。2002年6月に鈴木宗男事件が発生して衆議院本会議鈴木宗男議員辞職勧告決議が採決された時は、起立採決の際に出席議員で唯一着席したままで、反対票の意思表示を示した[注釈 1]。小泉政権下では、2003年に自由民主党幹事長代理、2004年?2006年に自由民主党総務会長に起用される。2005年郵政国会では6月28日自由民主党総務会における郵政民営化法案の決議においては、総務会長として議事を担当し、全会一致の慣例を破る形で多数決で採決させ党議拘束の理由を作った。

2006年9月26日、第1次安倍内閣で再び防衛庁長官として再入閣。その後、2007年1月9日に防衛庁が防衛省に昇格したのに伴い、初代防衛大臣となったが、2007年6月30日に開かれた講演会での原爆投下をめぐる発言で、被爆者団体を筆頭に被爆者や遺族などから問題視され、同年7月3日、この発言の責任を取る形で大臣の座を追われた。その後もマスコミによる批判報道や、反核平和団体や、被爆者団体などからの反発や、抗議活動が続き、同年8月9日に長崎で行われた平和祈念式典を欠席せざるを得ない状況に追い込まれた。(→後述を参照)

士志の会に属し、同会を構成する麻生太郎の後見人的立場にある。
略歴第1次安倍内閣防衛庁長官当時の久間章生。日本で最後の防衛庁長官であり、なおかつ初代の防衛大臣も務めた。

1959年3月 長崎県立口加高等学校卒業。

1964年3月 東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。

1964年4月 農林省入省。

1970年 農林省退官。

1970年 長崎県庁入庁。

1971年4月 長崎県議会議員に当選。以後3期9年間を務める。

1980年5月 長崎1区より第36回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選。

1987年11月 運輸政務次官に就任。

1994年1月 自民党国会対策副委員長に就任。

1996年1月 自民党副幹事長に就任。


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