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やノートページでの議論にご協力ください。久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22日)は、テレビ技術者。静岡県生まれ。
松下電器製作所(現在のパナソニック)における、ラジオ、テレビの開発黎明期の中心的メンバーの一人である。
経歴
1915年 - 静岡県に生まれる。
1935年 - 浜松高等工業学校(現在の静岡大学)電気科卒業。
1935年 - 松下電器製作所(現在のパナソニック)入社。入社後すぐに、テレビ開発を命じられる。
1938年 - 日中戦争勃発によりテレビ研究は縮小され、軍事技術研究をするようになる。
1950年 - ラジオ工場技術部長に就任。
1951年 - テレビ開発が再開される。
1953年 - オランダのフィリップスに派遣技術者に選ばれ、半年以上滞在する。テレビ工場長に就任。
1965年 - テレビ事業本部技術部長に就任。
1977年 - 松下電器産業(現在のパナソニック)定年退職。定年後は、松下電器産業株式会社AVC社技術顧問(非常勤)に就任。
エピソード(戦前)
浜松高等工業学校(現在の静岡大学)時代の恩師は、テレビ研究の草分けで、日本で初めて「イ」の字の送像実験に成功した高柳健次郎である。
松下電器製作所への入社は、浜松高等工業学校に来ていた中尾哲二郎技術部長(後に副社長)のスカウトによる。
浜松高等工業学校卒業前に、汽車で浜松から大阪に行き、門真で松下幸之助とはじめて面会する。この時、自分のことを色々と聞かれるものと思っていたが、30分以上にわたり松下幸之助が自社製品についてなどを熱心に語った。
当時の松下電器製作所の全国的な知名度は低かったが、自分を見込んでくれた会社に感動し入社した。浜松高等工業学校の同期の多くは、東京の会社へ入社していた。また、松下電器製作所の初任給は東京の会社の相場より10円安い60円であった。
入社後に配属されたのは、大阪・十三の工場であった(1935年の年末に、松下電器は松下電器産業株式会社となり、事業部別に9社の子会社に分社化され、この工場は松下無線株式会社に組み込まれた)。この工場では、抵抗器、コンデンサ、低周波変圧器、スピーカなどのラジオ部品を作っていた。入社後から、この工場の事務所の2階に寝泊りしていた。
入社後の最初の夏の賞与で、一着30円のオーダーメイドの背広を購入した。
入社当時は無線について不勉強だったため、十三工場のスピーカの責任者であった鈴木勇(後に、三洋電機のテレビ責任者となる)が持っていた共立社発行の『無線工学講座』を借り、無線工学の勉強から始めた。
入社した年の年末に中尾哲二郎に呼ばれ、「テレビの研究をするように」と言われる。これに対し「送像機から作る必要がある」と言うと、中尾は「当社で送信機を作ることは考えていない。今は送信機なしでラジオを作っている。テレビもラジオのように送信機なしで作れるはず」と言われる。当時、大阪でテレビ研究をしている者はおらず、まだラジオの時代であった。大変だと思ったが、テレビは興味のある研究対象であり、断るのももったいないと思い承知した。テレビの研究部は、本社・工場のある門真町にあったため、近くに引っ越した。この1935年12月が、松下電器のテレビの基礎研究が開始された時である。
テレビ開発を命じられてから、阪急百貨店で曾根有著の岩波全書「テレビジョン」を購入し、にわか勉強を始める。1936年はじめに、恩師の高柳健次郎教授を浜松まで尋ね(この当時、大阪からは鉄道で片道6時間かかった)、会社からテレビの研究を命じられたことを伝え、指導などをしてくれるように依頼した。この時に、試作しているブラウン管の分譲を頼み(試作代として150円を支払う)、日本テレビジョン学会発行の『テレビジョン年報』を教授からもらった。松下電器からは、松下社員養成所実習生二名を補助としてつけてもらえることになった。
手に入れたブラウン管でテレビ受信機の試作を始めるが、当時は高圧を作るのにフライバックトランス法が無かったため、商用電源用のトランスを利用した。電圧は5,000Vは必要で大変危険であった。高柳教授からは安全のためネオンサイン用のリーケージトランスを使うと良いと教わる。ラジオ用の真空管を流用し、信号発生器・パターン発生器・掃引信号発生器などは全て自作した。このようにして、テレビ受像機の試作を始める。
1937年になると、高柳教授は学校の研究陣の主力を率いて、東京・世田谷区砧のNHKの技術研究所で、テレビ実用化の研究を始める。松下電器は、1938年4月に東京・青物横丁に松下無線・東京研究所を開設し、テレビ研究部門も移設される。この東京研究所は、発足当時総員80名で、7科あり、第3科の科長として12名でテレビや通信機器の研究をした。毎日のように、品川の青物横丁から世田谷区の砧に通う(渋谷駅から研究所前までバスに乗ったり、小田急線の祖師谷大蔵駅から黒土の霜柱を踏んで技術研究所まで歩いた)。
テレビの研究、設計のための測定器(オシロスコープ)は自分で作成した。当時、波形を見るためのブラウン管オシロスコープはRCA社、フィリップス社などの輸入品があった。日本では、東京電気などが製品を出していた。テレビとあわせてオシロスコープを製品化しようとブラウン管の供給先を探すと、東光創業者の前田久雄がケーオートロン(後に、トウ)、日本光音工業でソニー創業者の井深大がブラウン管やオシロスコープを作っていた。