久邇宮朝彦親王
久邇宮
久邇宮朝彦親王(1880年撮影)
続柄
伏見宮邦家親王第4王子
崇光天皇男系15世孫
霊元天皇女系6世孫
身位親王
敬称殿下
出生1824年2月27日
死去 (1891-10-25) 1891年10月25日(67歳没)
配偶者泉亭靜枝子
泉萬喜子
原田光枝子
寺尾宇多子
角田須賀子
子女賀陽宮邦憲王、久邇宮邦彦王、東久邇宮稔彦王、多嘉王、ほか
父親伏見宮邦家親王
母親鳥居小路信子
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久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年1月28日〈1824年2月27日〉 - 明治24年〈1891年〉10月25日 )は、日本の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子[1]。久邇宮初代当主。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。香淳皇后(昭和天皇后)の祖父であり、明仁上皇の曽祖父、今上天皇の高祖父にあたる。北朝第3代崇光天皇の男系15世子孫。 天保7年(1836年)、仁孝天皇の猶子となり、翌天保8年(1837年)に親王宣下、成憲(なりのり)の名を下賜される。天保9年(1838年)に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、青蓮院門跡の第四十七世門主に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。青蓮院が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮(しょうれんいんのみや)または粟田宮(あわたのみや)と呼ばれた。その後には第二百二十八世天台座主にも就いている。 尊融は天台座主、護持僧としての祈祷、勤行を通じて孝明天皇に接するうちに政治向きの相談相手ともなっていった(徳富蘇峰「維新回天史の一面)。また嘉永七年に御所で火事が起きると青蓮院門跡となっていた尊融はいち早く孝明天皇が避難していた下賀茂神社に駆け付け、青蓮院を内親王の仮住まいに提供し、天皇の信頼を得た[2]。 尊融入道親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、江戸幕府13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老・井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融入道親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮(ししおういんのみや)と呼ばれた。 井伊大老が翌万延元年(1860年)に桜田門外の変で暗殺され、文久2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には青蓮院門跡のまま孝明天皇の相談相手、政治顧問として国事御用掛に任命され朝政に参画[3]、翌文久3年(1863年)8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。 文久3年前半は長州藩を中心とした尊王攘夷派公卿が朝廷の主流だった。そして尊攘派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔だった。孝明天皇が大和に行幸し、その際に天皇自ら攘夷のための軍議を開き、それによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すという企てである。その上で勅許を待たずに条約を批准した幕府にこそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取らせようという算段でもあった。 公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」として都から遠ざけられそうになった。しかし中川宮はこれを固辞し、政敵であり長州派の有力者のひとりだった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を譲った。 即時攘夷は難しいと内心考えていた孝明天皇は三条実美らの尊攘過激派が勝手に大和行幸
人物・来歴
幕末期
同年元服を済ませて朝彦(あさひこ)の諱を賜り、親王任官職の二品弾正尹に任じられる。以後は弾正尹の通称である尹宮(いんのみや)とも呼ばれた。
八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐される(七卿落ち)と、朝彦親王や関白二条斉敬は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うこととなり、「陰謀の宮」などと呼ばれるようになった。
元治元年(1864年)、因幡国鳥取藩士河田景与らを中心とした一部の尊攘派は、朝彦親王邸への放火や松平容保の襲撃を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった古高俊太郎に大量の武器を用意させた。しかし、計画途上で古高が新選組に捕らえられ、6月5日の夜に関与していた者の多くが潜伏していた三条木屋町の旅館・池田屋で闘死、もしくは捕縛された(池田屋騒動)。
この年、宮号を引っ越し先の屋敷の栢(かや)の木から賀陽宮(かやのみや)に改め公武合体派の重鎮として[5]孝明天皇を補佐した。京都御所南方の旧恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、賀陽宮は家禄1500石で宮家の列に新しく加わった。
同年7月19日、長州藩兵が京都へ攻め上る蛤御門の変が勃発、その懲戒として幕府は前後2度にわたる長州征討を行ったが、1度目は長州藩のあっけない降伏により短期間で終結、慶応2年(1866年)に行われた2度目の征伐では長州藩の前に敗北を重ねる中で、幕府は14代将軍徳川家茂を病で失い、同年9月に実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。12月には家茂の後を追うように孝明天皇が崩御し明治天皇が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。一方幕府では15代将軍となった徳川慶喜が意表をつく大政奉還によって国政の主導権を確保しようとしていた。
慶応3年(1867年)12月9日、小御所会議において王政復古が決定し、これに伴い長州藩主毛利敬親・広封父子や、有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。朝彦親王は1868年(明治元年)8月に徳川慶喜へ密使を送るなどし陰謀を企てたとして親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった[6]。翌1869年(明治2年)3月6日には安芸国で幽閉されることとなった[7]。