久米正雄
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久米 正雄
(くめ まさお)
1930年代
誕生1891年11月23日
日本長野県小県郡上田町
死没 (1952-03-01) 1952年3月1日(60歳没)
墓地鎌倉市瑞泉寺
職業小説家
劇作家
俳人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学文学部英文科
ジャンル小説
戯曲
俳句
文学活動第三次、第四次『新思潮
代表作『牛乳屋の兄弟』(1914年、戯曲)
『蛍草』(1918年)
『受験生の手記』(1918年)
『破船』(1922年 - 1923年)
『私小説と心境小説』(1925年、評論)
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久米 正雄(くめ まさお、1891年明治24年)11月23日 - 1952年昭和27年)3月1日)は、日本小説家劇作家俳人。俳号は三汀(さんてい)。“微苦笑”という語の造語者として有名。

芥川龍之介らと第三、四次「新思潮」同人となる。理知的な作風から、のち感傷的作風の通俗小説に転じた。作品に戯曲『牛乳屋の兄弟』(1914年)、小説『受験生の手記』(1918年)、『破船』(1922年)など。

永井龍男は義弟(永井の妻が久米の妻の妹)。
略歴

長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は1898年(明治31年)に小学校で起きた火災によって明治天皇御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した[1]。このため、正雄は母・幸子の故郷である福島県安積郡桑野村で育つ。母方の祖父・立岩一郎は中條政恒とともに安積原野開拓に尽力した開拓出張所長で、のちに桑野村の村長を務めた[2][3]東京帝国大学を卒業する1916年(大正5年)頃の第4次『新思潮』のメンバー。久米正雄は一番左、その隣から松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一。

旧制の福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)では俳句に熱中し、俳壇で有望視された。無試験で第一高等学校文科に推薦入学。東京帝国大学文学部英文学科に在学中、成瀬正一松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、作品を発表。戯曲「牛乳屋の兄弟」[注 1](1914年)で認められる。「新思潮」廃刊後は、「帝国文学」同人。

1915年大正4年)、夏目漱石の門人となる。1916年(大正5年)、芥川龍之介菊池寛、松岡譲らと第四次「新思潮」を創刊。同年大学卒業。このころ、中条百合子と交流。文学少女で、なおかつ資産家の娘であった百合子はドストエフスキーやトルストイなどの訳本を大量に所持。久米はそれを借りたり、互いに手紙にやり取りをしていた。相愛の2人であったが、久米が百合子への想いを自覚すると同時に二人の交流は終わる。この件は久米の随筆『彼女と私』に詳しい。この時期の久米は、路上で偶然に百合子と会うと真っ赤になって照れるほど純情であったという。百合子の父方の祖父・中條政恒は、久米の母方の祖父とともに安積を開拓した仲で両家につきあいが深く、百合子の父・中條精一郎は久米が大学に入る時の保証人だった。

その後、年末に漱石が急死。夏目家へ出入りするうち、漱石の長女筆子に恋して、漱石夫人鏡子結婚の許しを請うたところ、筆子が同意するなら許すとの言質を得る。筆子は松岡譲を愛しており、久米のことはあまり好きではなかった。しかし筆子は鏡子から久米と結婚するように言い含められていた。そんな中、何者かが久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した[5]。久米は夏目家への迷惑を恐れて婚約解消を申し出るが、筆子が泣いてさみしがって見せる。この件で久米の気持ちは後戻りできなくなった。鏡子は娘婿には暫くは漱石の版権管理などをさせたがっており、久米には小説を書かせたがらなかった[6]。久米はそれに逆らい執筆続行の意思を表明。鏡子の怒りを買う。この事から筆子への恋は破れた。その後、筆子は久米の親友であった松岡譲と結婚。この結婚に共通の友人であった芥川龍之介は怒り、松岡を揶揄する句を久米への手紙に書いている。しかし久米は松岡への友愛の情を棄てられず、何度も連絡を取ろうとしては拒絶された事を後の短編で告白している[7]

久米は失意のあまりいったん郷里に帰るが、1918年(大正7年)4日間ほどで再上京。生活のために職を探していたところ、菊池寛の勧めで『時事新報』に「蛍草」を連載させ(1918年3月19日 - 9月20日)、この通俗小説は好評を博した。以後、数多くの通俗小説を書いた。この蛍草の連載中の4月、松岡譲と筆子の結婚式当日に朝日新聞に久米を中傷する記事が大きく報じられる。筆子に一方的に恋慕した愚かしい男という内容で、醜い戯画までついていた。久米は大きく衝撃を受け、『大凶日記』、『敗者』、『和魂』などの小品に葛藤を吐露。しかし、この新聞記事により世論は久米への同情へ傾いたと『良友悪友』に書いている。

その後、多くの大衆小説を執筆。探偵小説風の冷火、ファムファタルを描き出した不死鳥、鉱山に生きる男たちを描いた赤光など、多彩な作品で人気流行作家となる。また、大衆小説連載の合間にも多くの私小説を書いている。

1922年(大正11年)になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」[8][9]を『婦人之友』1922年1月 - 12月に連載。かつて新聞で悪者にされながらも、同作品では松岡、筆子ともに敬意をもって描き、非常に大きな支持を得ることになる。翌1923年(大正12年)、待合「ゆたか」の元芸妓・奥野艶子(1904年 - 1992年[10])と結婚。多くの令嬢との見合いを断った末の恋愛であった。婚約期間中は体の関係を持たないようにするなど、真面目な交際をしたという[11]

自らは通俗小説の大家となりながら、芸術小説への憧れが強く、評論「私小説と心境小説」(文藝春秋社『文芸講座』1925年1月 - 2月)で、トルストイドストエフスキーも所詮は高級な通俗小説で、私小説こそが真の純文学だと論じた。しかし後に今後は大衆小説作家として生きることを明言するなど(二階堂放話)、心境の変化を見せる。親友であった芥川龍之介の自殺後、執筆量が極端に減るなどしている。

1925年(大正14年)から亡くなるまで鎌倉に居住。1927年(昭和2年)5月、長男が誕生。芥川が鎌倉までお祝いに来る。この日の会話の中で芥川から自殺をほのめかす発言を受ける。同年7月24日、芥川死去[12]1932年(昭和7年)、石橋湛山の後を継いで鎌倉の町議に立候補しトップ当選した。1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で川口松太郎里見クらと共に常習的な花札賭博を行っている容疑が浮上[13]。同年11月7日、築地の料亭で行われていた結婚十周年を祝う宴席が終了した直後に検挙された[14]。なお、賭博自体は身内でやる些細なものであったため不起訴となる。1937年(昭和12年)、ニース謝肉祭に触発されて大佛次郎ら鎌倉在住の作家仲間らと鎌倉カーニバルを企画。戦時中の中断をはさみながら1962年まで続くイベントへ成長させた[15]

1938年(昭和13年)には東京日日新聞(のちの毎日新聞)の学芸部長に就任。1940年(昭和15年)5月から文芸家協会主催、東京日日新聞などの後援により始められた文芸銃後運動講演会では総帥格となり、横光利一岸田国士中野実林芙美子ら文学者と全国を巡回した[16]。8月、この年から創設された芥川賞の選考委員の一人となった[17]

第二次世界大戦中は、日本文学報国会の事務局長を務めた。


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