久米川駅
南口(2016年3月)
くめがわ
Kumegawa
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久米川駅(くめがわえき)は、東京都東村山市栄町にある、西武鉄道新宿線の駅である。駅番号はSS20。
東村山市には「久米川町」という地名があるが、当駅ではなく隣の東村山駅が最寄りとなる。 開業時の住所は東村山村大字久米川で、それが駅名の由来であったが、1964年(昭和39年)の区画割により栄町に位置することになった[1]。 1927年(昭和2年)4月16日開業。当駅より上り方面は、都立家政駅(1937年開業)と終点の西武新宿駅(1952年開業)を除く全駅が同日に開業した。当駅開業以前から存在する東村山駅より下り方面(航空公園駅・新所沢駅・新狭山駅以外)は、元は現在の国分寺線であったため、当駅と東村山駅の間はカーブとなっている。 周辺に人家もまばらで雑木林と畑しかなかった場所に久米川駅を設置した背景には、東京土地住宅という土地会社が駅用地を提供したことがある。当時の計画図によると、駅は現在地から小平寄りの野火止用水と交差する辺りを予定したようである。 東京土地住宅は東村山に大規模な土地分譲販売を計画し、まず1925年(大正14年)、第一次に販売した30万坪は完売し、合計100万坪の販売を見込んでいた。ただ実際に購入した人は資産家が多く、投資や別荘用地と考えていたようである。例えば講談社の野間清治は、購入した約4万9千坪の土地で小作人を使い耕作させていたという。そのため居住者は増えず、久米川駅に何ら恩恵はなかった[注釈 1]。戦前は借家が一般的であり、自分の家を持つのは富裕層に限られていた。なお東急電鉄の母体となった田園都市では、購入後1年以内に住宅を建築すること、土地分割譲渡の禁止という条件を設けて投機目的の購入を排除していた[3]。 その後、東京土地住宅は乱脈経営が発覚するなどして休眠状態となり、東村山の土地開発も消滅した。東京土地住宅は駅の近くに分譲の目玉として1万坪の遊園地を造ったが、そこにあった東洋一といわれた大温室が戦後まで残っており、花を栽培していたという。やがてこの土地は野営地として利用されるようになり、1931年(昭和6年)には東京連合少年団(ボーイスカウト)の主催で全国から2500人の少年が集まり野営した。この成功により、西武鉄道は「久米川テント村」と名付けて利用者には運賃3割引として宣伝した[4]。 駅の改築には長い時間を必要とした。東村山市では南口駅前広場の造成を計画していたところ、1972年(昭和47年)に西武鉄道が橋上駅舎建設を提案し、市長との話し合いでは合意を得たが、定例市議会で身体障害者の団体から「久米川駅の橋上駅化に反対する陳情」が提出され、市議会では審議継続になった。これに対し久米川商店会からは「久米川駅の橋上駅化に関する陳情」も提出され、福祉か開発かで結論は翌年に持ち越しとなった[5]。 1973年(昭和48年)になって身体障害者患者連絡協議会・東村山市・市議会・西武鉄道の四者で話し合いがもたれ、身体障害者側からの要望を入れること、商店会からは駅東西の交流を図れるようにして駅の混雑も緩和できるような方策を西武鉄道に求めた。そうしているうちに今度は西友久米川店のビル建設問題が持ち上がり、これに商店会が反発して駅前広場造成工事が一時中止となるなど難航した[5]。 1978年(昭和53年)頃には、障害者団体からの手すり・スロープ・トイレ等の設置要望をもとに西武鉄道との協議が再開し、1980年(昭和55年)まで計画は練り続けられた。
歴史
開業
駅舎整備
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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