久留米城
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福岡県
 本丸の南西部
左から西下櫓、坤櫓、太鼓櫓跡の石垣
別名笹原城、篠山城、篠原城、久留目城、来目城、雨城
城郭構造連郭式平山城
天守構造なし・代用 (巽櫓[1] 層塔型3重3階 1620年ごろ築)非現存
築城主不明
築城年永正年間(1504年 - 1521年
主な改修者小早川秀包有馬豊氏
主な城主毛利氏田中氏摂津有馬氏
廃城年1871年明治4年)
遺構石垣、堀
指定文化財福岡県文化財
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度19分42.33秒 東経130度30分27.98秒 / 北緯33.3284250度 東経130.5077722度 / 33.3284250; 130.5077722座標: 北緯33度19分42.33秒 東経130度30分27.98秒 / 北緯33.3284250度 東経130.5077722度 / 33.3284250; 130.5077722
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久留米城(くるめじょう)は、福岡県久留米市篠山町(筑後国御井郡)にあった日本の城[2]
概要

久留米城は久留米市街の北西に位置し、筑後川が西から南へと大きく蛇行し宝満川と合流する左岸地点にあった丘の上に築かれた。江戸時代には久留米藩藩庁が置かれ、摂津有馬氏の居城であった。明治時代初頭に建物は撤去され、現在は本丸に有馬記念館と篠山神社が建てられ、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となっている。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(183番)に選定された。
沿革
室町時代

室町時代後期の永正年間(1504年 - 1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。天文年間(1532年 - 1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。1573年高良山座主良寛の実弟麟圭が城主になる[3]、1578年耳川の戦いで大友方として良寛は出陣したが、その間に鱗圭が寝返ってしまう[4]。そして1580年時点で良寛も龍造寺氏に従う[5]。1583年から立花道雪高橋紹運が高良山に陣を張り城を攻め、1585年には筒川・祇園原の戦いで龍造寺軍に大勝するも道雪が死に、目的は果たせぬまま紹運は同年陣を払い鱗圭は島津家に寝返ったものの[6]1587年天正15年)、豊臣秀吉九州を平定すると、13万石で筑後久留米に封じられた大友宗麟の娘婿である小早川秀包毛利元就九男、羽柴久留米侍従)によって鱗圭は殺害された[3]



安土桃山時代

秀包は篠原城の堀を掘削し石垣を積み天守を置くなど、織豊期城郭への大改築を行った。秀包がキリシタン大名でもあったことから、城下町には教会も建てられたが[7]、秀包は1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後改易となった。
江戸時代廃城直前の久留米城をとらえた唯一の写真(1870年代前半)。坤櫓(左)と巽櫓(右)が写っている[8]

関ヶ原の戦い後、筑後国には田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城とした。久留米城は柳川城の支城とし二男の吉信を城主とした。東向きの本丸があったが[2]1615年(慶長20年)に出された一国一城令により廃城となる。元和6年(1620年)吉政の子、忠政は嗣子なく没し、筑後柳川藩田中氏は改易となった[2]

かわって1621年(元和7年)、筑後国北半に丹波国福知山城主有馬豊氏が7万石から大幅に加増された21万石で封じられた[2]。幕府の御墨付きを獲た豊氏は、廃城も同然にまで荒れ果てた[8]久留米城を、隣国の筑前国福岡城黒田長政の助力も得ながら、筑後の要の城に相応しく大規模に拡張した。豊氏は田中氏が途中であった城普請を再開し、本丸を南向きに改築した[2]1631年寛永8年)に筑前堀を完成させ、1649年慶安2年)から4年掛かりで外郭部を構築し城下町を整備した[9]。2代藩主有馬忠頼の代にも外堀の浚渫や掘り直しが行われるなど城郭の整備が続き[8]元禄4年(1691年)4代藩主有馬頼元の代になって漸く城郭が完成した[2]

以後、明治維新まで久留米は西国の大藩である有馬氏の居城となった。
近代

1871年明治4年)の廃藩置県により久留米城は廃城となった。久留米城は陸軍省の管轄となり、1874年明治7年)の廃城令によって建造物は日田の町民が落札。城の建物は一部の山門を除き解体され、石垣も解体されようとしたが阻止された。1879年(明治12年)、本丸御殿跡地に篠山神社が建造された[8]
現代

1960年昭和35年)、久留米市市制70周年記念事業の一環として、当時のブリヂストン社長である石橋正二郎の寄贈で冠木御門に自動車用のスロープが整備され、本丸内に有馬記念館と東郷記念館がオープンした。

1974年(昭和49年)には、久留米市市制80周年記念事業として、当時の久留米市長近見敏之を中心に巽櫓の再建が計画されたが、実現しなかった。1983年(昭和58年)3月19日、久留米城跡として福岡県の県史跡に指定された。
形式と構造久留米城跡の航空写真
(1987年撮影・国土航空写真)久留米城北部(本丸からの三の丸)の平面図
1.本丸
2.二の丸
3.三の丸
F.筑後川
縄張(基本配置)

北西側の筑後川を天然の堀とし、比高差約15メートルの川沿いの丘陵の頭頂部を平坦にして本丸が築かれ、その南側に二の丸と三の丸、外郭(四の丸)、柳原が配された連郭式平山城であった。天守はなく、本丸に二重の多聞櫓で連結された三重櫓が各隅に7棟配されていた[10]
本丸

本丸の規模は東西約96.4m、南北約156.4m。石垣の高さは約14mから15m。本丸は中央に本丸御殿、それを取り囲むように7棟の櫓が築かれ、櫓は2層の多門櫓で連結されていた[2]


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