久春古丹
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久春古丹(クシュンコタン)は、江戸時代から明治初期にかけて用いられた樺太の地名。
概要

アイヌ語のkus-un-kotan(対岸・にある・村)に由来する。九春古丹とも。後の大泊町楠渓町。市街地中央にある台地・神楽岡の北に位置する。江戸時代、松前藩の穴陣屋があった。また、交易の拠点で北前船も寄港し、松前藩の出先機関として運上屋会所)も置かれていた。江戸時代後期から幕末にかけ、度々ロシア人の襲撃に遭ったが、明治時代に入って一時期樺太開拓使が置かれた。日露戦争後は樺太民政署を経て樺太庁が置かれたが、樺太庁は後に豊原に移転した。
歴史

以下、後の大泊町域に関連する出来事。
松前藩領時代


1679年延宝7年) - 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。

1685年貞享2年) - 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた(商場(場所)知行制を参照)。

1715年正徳5年) - 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太(樺太)、チュプカ諸島勘察加」は松前藩領と報告。

宝暦2年(1752年)ころシラヌシ(本斗郡好仁村白主)にて交易が始まり、クシュンコタン(大泊町楠渓町)などで漁場が開設された。

安永元年(1772年)、藩主松前資広の命を受けて村山伝兵衛が渡樺し、食料などをアイヌに贈り漁法を伝えた。

安永6年(1778年)には新井田隆助がアイヌを介抱した。

寛政2年(1790年松前藩が樺太商場(場所)を設置。藩の出先機関の機能も兼ね備えた運上屋では、撫育政策としてオムシャなども行われた。

文化露寇と第一次幕領期


1806年文化3年) - 日本との通商を拒否されたニコライ・レザノフの部下のロシア海軍士官らが、報復のためアイヌの子供をはじめ数名を拉致し久春古丹など数か所を略奪し焼き討ちにする(文化露寇、1806-1807年)。弁天社[1][2]鳥居真鍮でできた板を取り付け「樺太の占領」「先住民はロシアに服従した」と意味する内容が記された。

1807年文化4年)

ロシア海軍士官らが択捉島礼文島などとともに留多加を襲撃する。警固のため幕府が秋田藩弘前藩仙台藩会津藩など奥羽諸藩に蝦夷地への出兵を命じる。ただし、ロシア帝国政府は文化露寇に不関与であり、1813年(文化10年)イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を松前奉行に提出・謝罪し事件は解決した。

西蝦夷地(唐子エゾ居住地である北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料とし、以降樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳戸籍)が作成されるようになる(江戸時代の日本の人口統計も参照)。


1808年文化5年)

幕命を受けた会津藩が樺太警固をおこない、樺太検分のため、間宮林蔵も渡樺[3][4][5]。林蔵は、クシュンコタン(大泊町楠渓町)、ホロアントマリ(大泊町栄町)に立ち寄った後、東のホラブニ(ホフラニ、長浜郡長浜村洞船)方面に向かった。


松前藩復領期


1821年文政4年) - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。

1846年弘化3年) - 松浦武四郎が草履取・運平と名乗り、はじめて渡樺。北蝦夷地勤務を下命された藩医・西川春庵に随行(『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』)。

1853年嘉永6年) - 秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所()を築き、国旗を掲揚し一方的に樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した(ロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策も参照)。

1854年(嘉永7年)

千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)

5月18日 - クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航しわずか8か月ほどで駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。


第二次幕領期


1854年(嘉永7年)

6月12日、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが北蝦夷地クシュンコタンに渡海。


1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。


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