「長者屋敷遺跡」はこの項目へ転送されています。静岡県磐田市の遺跡については「長者屋敷遺跡 (磐田市)」を、大分県中津市の遺跡については「長者屋敷官衙遺跡」をご覧ください。
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令制国一覧 > 東海道 > 常陸国 > 久慈郡
日本 > 関東地方 > 茨城県 > 久慈郡
茨城県久慈郡の範囲(緑:大子町 薄黄:後に他郡に編入された区域)
人口14,123人、面積325.76km²、人口密度43.4人/km²。(2024年5月1日、推計人口)
以下の1町を含む。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、下記の区域にあたる。 久慈郡の郡衙跡の場所についてはいくつかの説がある。のちの水府村(後述、現在の常陸太田市の一部)付近が郡家であったとする説[1]があるが、最も有力な説は郡衙は久米郷
大子町(だいごまち)
郡域
常陸太田市の全域
日立市の一部(下深荻町・中深荻町・入四間町・東河内町および概ね石名坂町、大みか町以南)
常陸大宮市の一部(概ね久慈川以東および盛金・久隆)
郡衙
久慈郡の郡寺は上記長者屋敷遺跡内にある久(慈)寺であると考えられている。寺名については、当寺の寺域を囲んでいたと思われる溝や住居跡から「久寺」と読める墨書土器が出土しており[6]、郡寺には郡名を冠する「郡名寺院」と呼ばれるものがあることから、「久寺」を「久慈寺」の略で郡名を称する寺院の名であると考えたものである。 常陸国風土記によれば、郡家の南近くに昔あった小さな丘の形がクジラに似ているのを見たヤマトタケルがこの地を久慈と名付けたことが久慈郡の郡名の由来であるという。前述のように郡衙跡とされている地域の一部の常陸太田市大里町から常陸太田市立郡戸小学校付近を眺めると望むことができる丘はクジラの形に似ている[7]ので、風土記記載の小さな丘というのはこの丘をさしている可能性がある。また、アイヌ語の「クシュ」もしくは「クジ」を語源として湾曲した砂丘を指すとする説がある。同様に岩手県の久慈市や川崎市の久地も河川の蛇行域の砂地をアイヌ人がクジと呼んでいたことを語源と見る説もある。[8] 『先代旧事本紀』の「国造本紀」において第13代成務天皇の代に初めて任命されたとされている国造である久自国造の本拠地はのちの久慈郡であるとされている。
郡名の由来
歴史