久地
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久地
町丁大字
町内を流れる二ヶ領用水本川。かつては豊富な水で下流の田畑を潤し、地域一帯の農業を支えた。(久地さくら緑地、2006年 3月27日撮影)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分38秒 東経139度36分33秒 / 北緯35.610614度 東経139.609069度 / 35.610614; 139.609069
日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区高津区

人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1]
 人口13,447 人
 世帯数6,453 世帯

面積[2]
 1.295034907 km²
人口密度10383.5 人/km²
設置日1937年昭和12年)
郵便番号213-0032[3]
市外局番044(川崎MA[4]
ナンバープレート川崎
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久地(くじ)は、神奈川県川崎市高津区町名。現行行政地名は久地一丁目から久地四丁目と大字久地。住居表示は久地(丁目あり)は実施済み区域、大字久地は未実施区域[5]
地理

川崎市高津区の北部に位置し、東部の一部で多摩川に接し、西部を府中街道神奈川県道9号川崎府中線)および二ヶ領用水の本川が通り、概ね多摩川沿いの平坦な土地であるが、南西部には津田山(七面山)と呼ばれる小高い丘がそびえている。

また南部にはかつては久地梅林が広がっており、花の名所として賑わった。
地価

住宅地の地価は、2024年令和6年)1月1日公示地価によれば、久地1丁目2-26の地点で38万2000円/m2[6]、久地1丁目15-40の地点で32万3000円/m2[7]となっている。
平瀬川

久地円筒分水が造られるのと同じ頃、七面山(津田山)の反対側を溝口市街へ流れていた平瀬川の洪水が問題となっていた。

そこで、久地円筒分水へ流入する水量を調整する堰と、余剰の水を多摩川へ流す施設を改築するとともに、七面山(津田山)にトンネルを掘って反対側の平瀬川の水を久地に向けて流し、そのまま多摩川へ流すための流路が設けられることとなった。(詳しくは平瀬川を参照。)

なお、この平瀬川は現在の多摩川堤防より低いところを流れて多摩川に合流するため、多摩川の下流側、平瀬川に沿って霞堤が設けられている(平瀬川に沿っていることから平瀬川堤防にも見えるがこれは多摩川の堤防である)。この霞堤は平瀬川から少し離れており、間に民家が立地している。場所こそ異なるものの、かつての横土手を思わせる様相になっており、治水の歴史とその難しさを暗示している。この平瀬川の新しい流路は新平瀬川と呼ばれる。
歴史

松寿弁財天の東側尾根筋からは、古墳時代前期の円墳で割竹形木棺が出土した久地伊屋之免古墳。津田山(七面山)周辺には、久地西前田横穴墓群、浄元寺裏横穴墓群、中之橋横穴墓群、平瀬川隧道際西横穴墓などの、古墳時代後期(6?7世紀)のものと推定される多数の横穴墓が見つかっており、古代からの居住地であったことが確認されている。ほぼ全域が多摩川扇状地である肥沃な土地で、また多摩川と二ヶ領用水本川に挟まれた当地は豊かな水に潤され、昭和中期頃までは稲作をはじめ農業が盛んであった。反面、かつて多摩川は度々洪水を引き起こしており、また二ヶ領用水の分水樋が位置していたことからも、水にまつわる争いが絶えなかったことが窺われる。

江戸時代、久地村は徳川幕府の直轄領(天領)であった[8]正保年間(1644年から1647年)は御料地で、幕府代官で関東総代の伊奈半十郎が支配し、『新編武蔵風土記稿』の時点では幕府代官の小野田三郎右衛門の領地であった[9]。伊奈家の支配の影響で品川宿助郷に人足を出す負担を強いられ、1681年(延宝9年)には久地村は、継立村に指定されていた二子村の助郷村にも指定された[8]

近年になると、近代化の流れの中で当町の多摩川沿いや府中街道沿いには工場が相次いで立地するようになり、特に東部に隣接する宇奈根との境界付近では、今でも工業地域として大小さまざまな工場が軒を連ねている。
多摩川と二ヶ領用水

江戸時代初期に整備された二ヶ領用水は、上河原・宿河原の堰で取水した豊富な水が当町西北部で合流し、津田山(七面山)沿いを流下して当町西南部で 4方面へと分けられており、当町は稲作の生命線である水の要衝の地であった。二ヶ領用水に潤された下流域では以降新田開発が進み、かつては上質なが「稲毛米」と呼ばれ、江戸で好評を博したという。反面、水にまつわる争いも絶えることがなく、度々騒動が起きていたといわれる。特に二ヶ領用水の水を正確に分けるために設けられた分水樋については、かつては木の板を用いた簡素なものであったが、正確な分水が出来ないことから水をめぐる争いが絶えず、かつての分量樋(二ヶ領用水久地分量樋)に代わり、高度な技術を投入して久地円筒分水が造られるほどであった。

また、久地分量樋を洪水などの被害から護るため、その手前には久地大圦樋、および余剰の水を多摩川に流す水路が設けられていた。多摩川と二ヶ領用水に挟まれたこの一帯は、かつては度々洪水に見舞われたが、その洪水から下流域を護るためにと溝ノ口村・二子村など下流域の村々が横土手を盛りはじめ、それに久地村や上流の堰村などが反発、工事は 300m ほど進んだところで続行不能な事態になり、以降中断されたまま放置されていたという。

その土手の遺構が近年まで残っていたが、現在はこの付近の工場跡地に大規模マンション建設がされ、かつての横土手は舗装道路へと姿を変えており、すぐ側に設けられた川崎歴史ガイドのガイドパネルが往時の状況を伝えるのみである。

1597年(慶長2年)- 小泉次太夫六郷用水及び二ケ領用水の開削事業を開始。

1609年(慶長14年)7月- 稲毛川崎二ヶ領用水の本流路開削工事完了。

1611年(慶長16年)3月- 稲毛川崎二ヶ領用水工事完了。灌漑面積1876町歩。

1616年(元和2年)- 稲毛川崎二ヶ領用水組合成立。

1628年(寛永5年)- 関東郡代伊奈忠治の手代筧助兵衛、多摩川に宿河原用水取水口を新設。

1710年(宝永7年)- 多摩川の川筋が変わった事により、久地村と対岸の宇奈根・大蔵・鎌田3ヵ村との間に地境論争が起こる。

1910年(明治43年)- 老朽化のため久地分量樋崩壊。久地円筒分水建設。

1919年(大正8年)- 内務省、多摩川河口から久地にいたる多摩川右岸改修工事開始。

久地梅林

今は極僅かとなった久地梅林は往時の面影を今に伝えるように今も花を咲かせており、メジロも毎年訪れて春を告げている。(2006年 3月04日撮影)極わずかになったものの、かつての華やかな久地梅林の様子を今に伝える梅林には、春を待ちわびていたメジロ達が訪れ賑わう。このは、高津区の木にも選ばれている。(2006年3月4日撮影)

新平瀬川が流れる先は、かつては久地梅林(くじばいりん)と呼ばれる花の名所であり、往時は稲田堤の桜とともに花見の名所として親しまれていたという。


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