久保 竜彦
名前
愛称タツ、ドラゴン
カタカナクボ タツヒコ
ラテン文字KUBO Tatsuhiko
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1976-06-18) 1976年6月18日(47歳)[1]
出身地福岡県朝倉郡筑前町
身長181cm[1]
体重73kg[1]
選手情報
ポジションFW(CF)
利き足左足
ユース
1989-1991筑前町立三輪中学校[1]
1992-1994筑陽学園高等学校[1]
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1995-2002サンフレッチェ広島 183 (67)
2003-2006横浜F・マリノス 83 (26)
2007横浜FC 8 (1)
2008-2009サンフレッチェ広島 27 (3)
2010-2011ツエーゲン金沢 50 (15)
2013-2015廿日市FC
通算351 (45)
代表歴2
1998-2006[2] 日本32 (11)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月31日現在。
2. 2006年5月13日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
久保 竜彦(くぼ たつひこ、1976年6月18日 - )は、福岡県朝倉郡筑前町出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。元日本代表。 高い跳躍力とスピードを持つフォワード[3]。 派手なプレースタイルとは裏腹に試合中以外は基本的に寡黙・謙虚で、どんな質問でも「よかったです」「嬉しかったです」などと答えることが多くインタビュアー泣かせだが、知名度が上昇するにつれ、その朴訥としたキャラクターも周囲に認知され人気の一因となった[4]。 家族は妻との間に二女がいる[5]。長女の久保柚季 地元筑前町で幼い頃から自然と遊びの中で野球をしており、ショートやサードを守っていた右打者だった[6]。読売ジャイアンツのファンで、篠塚和典の守備センスに憧れていた[6]。 小学3年生の時、遊具で遊んでいた最中に小指を骨折してしまったことが転機となった[6]。グラブをはめられないことから、小学校4年生[4][7] の時サッカーをやり始めるとハマり、野球を辞め本格的にのめり込んでいった[6]。当時からの同級生に大場啓[8]。中学入学後もサッカーを続けたが、当時の久保に誰もサッカーの基礎を教えなかった[6]。1992年、吉浦茂和の指導力の評判を聞きつけ、大場と共に筑陽学園高校へ入学する[6]。吉浦は久保の今後を思いその潜在能力を潰さないよう、最低限の技術や戦術を指導した[6][9]。高校当時のポジションは左MF[4]。1993年高校2年の時にJリーグが開幕し、当時はラモス瑠偉に憧れた[4]。同高校2年の時、高校選手権福岡県決勝に進出するも、小島宏美や山下芳輝らを擁する東福岡高校に敗れている[6]。個人としては、高校2年時と3年時に福岡県選抜として国体に出場したことが唯一の全国大会での成績である[6][7]。 高校卒業後もサッカーを続けるつもりだった[8]。大学からオファーがあったものの家庭の財政状況から進学を諦め就職するつもりだったが、より高いレベルで続けさせたい吉浦の強い薦めにより同級生である大場と共にサンフレッチェ広島F.Cのテストを受ける[8][9]。全国的に無名な久保にはJリーグチームのどこからもオファーがなく、吉浦と広島の中村重和スカウトが知り合い[注 1]だったことからテストを受ける運びとなった[8]。 1995年、広島へ加入[注 2]。加入当初MF登録であったが1年目に河内勝幸サテライトチーム監督にFWへコンバートされる[8]。2年目、ビム・ヤンセンはエースFWの高木琢也の控えFWとして、あるいは久保をトップ下に入れて同時起用した。黄金世代の1世代上で年代別代表経験のない久保は無名な存在だったが、一部関係者にはこのころから評価されていた[10]。 1997年、広島の監督がエディ・トムソンに替わると高木の怪我による欠場もあり、レギュラーを掴みかける[8]。若手時代、久保のピッチ外の生活態度が良くなく、これを心配した総監督の今西和男に結婚を勧められ、同年7月に当時付き合っていた高校の同級生と結婚する[8]。 1998年、高木が移籍すると広島のエースとして定着する。2001年、ヴァレリー・ニポムニシが目指した攻撃サッカーでは中心選手として活躍[11]、公式戦全試合に出場している。2002年末、広島はJ2に降格し、移籍を決意する。この際横浜F・マリノス・FC東京・東京ヴェルディ1969・大分トリニータ・ジュビロ磐田・名古屋グランパスエイトが獲得に乗り出す[12] も、完全移籍前提での話となったことから横浜FMと磐田に絞られた[13]。
人物
来歴
プロ入り前
サンフレッチェ広島