久保田藩
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『天保国絵図』より「出羽国秋田領」

久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の一つ。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる[1]久保田城居城とし、藩主は佐竹氏が治めた。佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。表高は約20万石、実高は約40万石。家格は大広間国持大名

支藩として新田分知された家が2家ある他、2代義隆の実家亀田藩岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。
沿革

秋田・仙北地方は、戦国期には秋田氏戸沢氏六郷氏小野寺氏などが治めていたが、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)に小野寺氏は改易、他は多くが常陸国へ転封となり、代わって佐竹氏が入封する事により近世大名支配が始まった。久保田入封以前の佐竹氏は常陸一国54万石の大身大名であったが、久保田藩の表高は当初明示されず、60年以上経った寛文4年(1664年)に計20万5,800石と決定された。そのため、常陸以来の膨大な家臣団を抱えて財政は慢性的に苦しい状態が続き、宝暦4年の藩札発行に起因する佐竹騒動を初め、政の混乱や領民の一揆が多発した。

そんな中でも歴代藩主は文教事業に熱心に取り組み、三代義処による藩史編纂局「秋田史館」創設、八代義敦(曙山)による「秋田蘭画」創設、九代義和による藩校「明徳館」設立などの業績が知られている。

幕末、東北の諸藩は幕府から蝦夷地の警備を命じられ、藩は安政2年(1855年)に増毛での警備を命じられた[2]。安政3年(1856年)には増毛に拠点となる元陣屋を置き、宗谷や樺太にも陣屋を置いた[2]。警備と開拓は12年にわたったが、陣屋の建物は簡素だったため多くの凍死者や病死者が出たほか、冬季の野菜不足による水腫病(壊血病)もあり多い年には30人以上が病死したといわれている[2]

明治維新に際しては、当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、藩内では平田篤胤の思想をなぞる尊皇攘夷派が形成されていたこともあり、仙台藩の使者を斬ったうえ同盟を破棄した。尊攘派の中心は吉川忠行・忠安親子であり、忠安は雷風義塾に学んでいた。忠安は『開花策論』において尊皇思想を説き12代藩主佐竹義堯がこれを容れたための、一藩での官軍参加であった。孤軍奮闘状態で奥羽越列藩同盟軍に対抗したが[3]、明治政府が派遣した佐賀藩兵の助けもあって持ちこたえた(秋田戦争)。四面楚歌の状況下で錦の御旗を守ったこの事実は成田為三作曲の「秋田県民歌」の三番にも記されている。

慶応4年閏4月21日1868年6月11日)発布の政体書に於いて府藩県三治制が布かれ、佐竹氏の地方政権が正式名称として「久保田藩」になった。しかしこの地方の古来よりの呼称は「秋田」であり、「久保田」は300年来の称とはいえ元は一小村の俗称に過ぎないとして、明治4年1月9日1871年2月27日)に政府へ藩名変更の願書を提出し、同年1月13日3月3日)に秋田藩と改称した[1]。これが同年7月14日8月29日)の廃藩置県で「秋田県」が置かれることに繋がった。
領地・石高

この節では、寛文4年(1664年)に石高が確定するまでの変遷を記す。以後は長く変わらないが、幕末には蝦夷地の一部が与えられ、また戊辰戦争後に支藩の岩崎藩へ雄勝郡の一部を割譲している。
秋田六郡

関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年5月8日(1602年6月27日)、佐竹義宣は徳川家康から突然国替の命令を受け、与力大名であった蘆名盛重岩城貞隆多賀谷宣家相馬義胤と共に関東・南陸奥の領地をすべて没収された[4](相馬義胤のみ同年10月に改易撤回)。国替の命令というのは「義宣は羽州に於て替地を賜へし」というもので、具体的な場所も石高も明らかにされていなかった[4]。転封先で得られる収益の規模、賄える家臣の数が判らないため、義宣は家老・和田昭為に対し、俸禄の削減と小禄家臣の召し放ちを予告する書状を出している。またこの書状によると、この時点で義宣は転封先を「最上」と推測していたらしい。

同年7月27日(1602年9月12日)、改めて判物が下されて転封先は明らかになったが、「出羽国之内秋田・仙北両所進め置き候、すべて御知行あるべく候也」というだけで、なお石高は不明であった[4]。この「秋田・仙北」は秋田六郡のことで、秋田郡檜山郡(後の山本郡)・豊島郡 (後の河辺郡)・山本郡(後の仙北郡)・平鹿郡雄勝郡を指す。

秋田六郡の石高が20万石と決定するのは寛文4年4月5日(1664年4月30日)で、2代藩主佐竹義隆の治世後期になってからである[5]。この時に義隆は幕府へ高辻帳を提出して、当時の実高である32万石の公認を求めたものの、認められなかった[5]。これ以前には正式な石高は無かったことになるが、諸役負担や他の大名との席次などから推測すると、その時々によるが15万石から30万石超に相当する扱いを受けていたと考えられている[6]
薬師寺11ヶ村

慶長10年10月17日(1605年11月27日)に幕府から追加で与えられた土地で、下野国河内郡の7ヶ村(薬師寺村、町田村、田中村、仁良川村、東根村、磯部村、絹板村)と絹板村の枝村である花田村、都賀郡の3ヶ村(萱橋村、飯田村、山田村)からなる。現在の栃木県下野市小山市に跨る地域で、惣名として薬師寺と呼ばれた[7]。石高は最初の検地で5,414石、後に新田400石を加えて、寛文4年の決定時に5,818石である[8]。秋田六郡と合わせて約20万5,800石になる。

義宣は参勤交代の際、奥州街道の脇道にある薬師寺へよく立ち寄っており、鷹狩りを楽しんだり、塩原温泉から運ばせた湯で湯治を行ったりしていた[9]
百三段3ヶ村

山形藩最上義俊が改易された直後の元和8年10月12日(1622年11月14日)、旧最上領の一部であった由利郡の百三段(ももさだ)を、久保田藩領の一部と交換している[10]。由利郡の北端にある百三段新屋村百三段浜田村、百三段石田坂村の3ヶ村で、久保田城に非常に近接しており軍事的に脅威となっていたことから、最上氏改易に伴い由利郡接収を命じられたのを絶好の機会として義宣が幕府に働きかけたものである[11]。石高は、正保4年(1647年)の「出羽国一国絵図」によると3ヶ村合わせて688石である[11]

百三段3ヶ村はこれ以降、由利郡から河辺郡へ移ることになるが、引き換えにした久保田藩領の土地がどこであったかは、明確な史料が無く判明していない[11]。一説として、由利郡接収の際に久保田藩の軍勢を待機させた「由利領境目」の村(君ヶ野村、名ヶ沢村、桂根村、大沢郷のうち木売沢村)が後に亀田藩領となっていることから、これらの村が元は久保田藩領で、河辺郡(豊島郡)などから由利郡へ移ったのではないかと考えられている[12]
財政


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