久保田治
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

久保田収」あるいは「久保田修」とは別人です。

久保田 治基本情報
国籍 日本
出身地愛知県新城市
青森県上北郡野辺地町生まれ)
生年月日 (1934-12-19) 1934年12月19日(89歳)
身長
体重177 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1955年
初出場1955年
最終出場1966年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


豊川高等学校

駒澤大学(中退)

東映フライヤーズ (1955 - 1965)

読売ジャイアンツ (1966)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

久保田 治(くぼた おさむ、1934年12月19日 - )は、愛知県新城市出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球審判員
経歴

父親が帝室林野局勤務のため、各地に移り住む[1]豊川高等学校に入学後、父の転勤で島根県立浜田高等学校へ移る[1]。その後、本人の希望で再度豊川高校に戻る[1]。豊川高校の同級生には中日ドラゴンズで投手として活躍した伊奈努、同じく中日に入団する外野手足木敏郎がいた。1952年夏の甲子園県予選で準決勝に進むが時習館高に敗退、甲子園には出場できなかった。卒業後は法政大学野球部へ進むがすぐに毎日オリオンズ入りの噂が立って居づらくなり[1]駒澤大学へ入る。黒柳勝至(東京電電)とともに投手陣を支えるが、東都大学野球リーグでは優勝に届かず、1954年春季リーグの3位が最高成績だった。リーグ通算10勝13敗を記録。

1955年、大学を中退して東映フライヤーズ投手として入団。当時東都大学リーグも使用していた駒沢野球場が東映の本拠地で久保田をマークしており、成績不振のため戦力を求めての獲得だった[1]。1年目から先発として起用され、同年は3勝を挙げるがその後は伸び悩む。しかし1960年にショートリリーフが中心ながら9勝、同僚だった張本勲によるとちょっと横から投げてクセ球を投げる投手だった[2]1961年に監督に就任した水原茂土橋正幸に次ぐ先発として起用し25勝[2]、防御率2.16(いずれもリーグ3位)を記録した。翌1962年にも16勝を挙げ、防御率2.12と最優秀防御率に輝く。東映のパシフィック・リーグ初優勝に貢献し、同年の阪神タイガースとの日本シリーズでも3試合に先発。最終第7戦では9回を無得点に抑え土橋につなぐ。シリーズで勝利投手にはなれなかったが、日本一に大きく力を添えた。翌1963年にも15勝を記録するが、その後は登板機会が減少。1966年読売ジャイアンツに移籍するも、1勝を挙げたのみで引退した。サイドスローからのスライダー、カーブ、シュートが武器。

引退後セントラル・リーグ審判部に入局。審判員になった年齢は遅いが、ファームでは最優秀審判賞を受賞、早い時期から巨人戦の球審も任され、1974年日本シリーズ初出場を果たし、1978年ヤクルトスワローズがリーグ初優勝決定試合での球審など順調にキャリアを積み重ね、2852試合に出場、日本シリーズ・オールスターゲームはともに7回出場した。1995年の日本シリーズを最後に引退、審判指導員として後任の指導に当たっていたが2001年に退職した。現在はプロ野球マスターズリーグで審判を務めている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef