久米 小百合
出生名久保田 小百合
別名久保田 早紀
生誕 (1958-05-11) 1958年5月11日(66歳)
出身地 日本・東京都北多摩郡国立町(現在の国立市)
学歴共立女子短期大学文科国語卒業
ジャンルニューミュージック
教会音楽
職業歌手
シンガーソングライター
担当楽器ボーカル
キーボード
ピアノ
活動期間1979年 - 現在
レーベルCBSソニー
(1979年 - 1985年)
ミクタムレコード
(1987年)
ファンハウス
(1988年)
MMP
(1996年)
ミディ
(2009年)
公式サイト ⇒http://www.missionphotos.info/
久米 小百合(くめ さゆり、旧姓:久保田(くぼた)、1958年5月11日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、キリスト教音楽家、日本バプテスト連盟加盟教会の教会員である。東京バプテスト神学校神学科修了[1]。
1979年から1984年までは久保田 早紀(くぼた さき)として活動していた。
国文学者の久保田淳は叔父[2]。 1958年、東京都北多摩郡国立町(現在の国立市)で生まれる。 母親の意向で、4歳からクラシックピアノを習い始めた。本人はそれほど熱中できず、小学校高学年になると、日本のフォークソングや歌謡曲、ビートルズなどを好んで聴き演奏するようになり、中学生になると、母の許可を得てレッスンに通うのをやめる。 1972年、13歳のときに八王子市に引っ越す[3]。八王子市立第四中学校の同級生男子3人組が、当時人気だった「ガロ」のコピーバンドを始めると、キーボード担当として誘われ、文化祭などで演奏を披露した。 松任谷由実や矢野顕子に憧れ、自作の曲を書き溜めていた[4]。当時、父親が仕事でイランに赴いており、現地で人気の女性アーティストのカセットテープをよく買って来てくれていた。中近東独特のそれらの音楽を聴いていたことが、異国情緒をともなう音楽性を養うことにつながった[5]。 共立女子第二高等学校を経て、共立女子短期大学文学科に入学。在学中の1978年、「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募する条件として、CBSソニー(現在のソニー・ミュージックレコーズ)に自分の歌を録音したカセットテープを送り、一次審査に合格する(同大会には松田聖子も参加していた)。本人は「ミス・セブンティーンコンテスト」は主にアイドル対象のオーディションとは知らず、人前で歌う勇気が無かったことから、レコード会社の人に聴いてもらえればという目的で応募したという。二次の水着審査は固辞したが、その代わりとして東京・六本木のCBSソニースタジオで弾き語りを披露することになり、そこでディレクターの金子文枝に出会う[4]。 金子の指導の下、デビューを目指し、当時八王子市にあった実家から23区内の短大とCBSソニーに通う日々を送る。中央線に乗車中、曲や詞を考えることが多く[6]、のちのデビュー曲「異邦人」は八王子付近[4]や国立付近[7][8]で作ったとコメントしている[9]。 金子からは「自分としての曲や詞を見つけていこう」と言われており、自分には何が有るかと思い返したところ、父からもらったイランのアーティストの音楽テープを思い出し、また金子から「ポルトガルの演歌とも呼ばれるファドの世界が合うと思う」と勧められ、ファド歌手のアマリア・ロドリゲスの歌を聴くようになった[4]。 1979年に短大を卒業すると、その年のうちに三洋電機がタイアップに付いてデビューが決まる。 デビュー曲の候補には「白い朝」、「夢飛行」[10]、「25時」[11]の3曲があり、「白い朝」はゆったりとした感じの曲だった。三洋電機の意向により「白い朝」に決定した後、CM映像がアフガニスタンで撮影されたことや、当時流行していたエーゲ海・地中海などの異国情緒などが意識されて、歌詞・曲ともに大幅なアレンジが施された。そして最終的に、音楽プロデューサー・酒井政利の判断で「異邦人」と改題され、「久保田早紀」のアーティスト名で、同年10月1日にレコードデビューした[4]。なお、「異邦人」には「-シルクロードのテーマ-」というサブタイトルが付されている。ただし、当時NHKで放送していたNHK特集 シルクロードという番組とは何の関係もない。 タイアップされたカラーテレビのCMが放送されるにつれ、そのオリエンタルで神秘的な曲調や歌声に注目が集まり、じわじわと売り上げを伸ばしてブレイクする。12月13日、『ザ・ベストテン』に5位で初登場した際にはその美貌にも注目が集まる。12月27日には1位を獲得、1980年1月17日まで3週間連続(正月休みを挟み実質4週)で1位の座に留まり、その後3月6日まで12週の長きにわたり連続ベストテン入りする大ヒットとなった。同年12月に発表した最初のアルバム『夢がたり』もヒットし、一躍話題のニューミュージック歌手となる。金子らの方針もあって、当時のテレビ出演時にはピアノ弾き語りのスタイルを通した[12]。 2作目のアルバム『天界』(1980年6月)では、引き続き得意のオリエンタル・エキゾチック路線を狙う。 3作目のアルバム『サウダーデ』(1980年11月)では、ファドへの憧憬から現地レコーディングを敢行し、前半の5曲(LP盤のA面)は、ファドミュージシャンたちの演奏をバックにしたポルトガル録音版となっている。 子供の頃に日曜学校に通うなど、キリスト教に親しむ環境はあったが、ポルトガルでのレコーディングから帰って来ると「もう一度教会に通ってみたい」と思うようになったという。 1981年の「オレンジ・エアメール・スペシャル
来歴
幼少期
デビューまで
久保田早紀としてデビュー
デビュー後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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